最期の時を過ごしたコンシュルジュリ内/撮影・著者
少年サン・ジュスト⑪
「非常事態」という言葉は便利である。
非常時なのだから、一般的な常識やモラルに囚われる必要がない。
戦時下を理由に、ルイとその仲間が権力を掴んだ。
(もっと先へ・・・先へ)
まるで傾いた船から荷物を放り出すように、次々と仲間を斬り捨てた。
何千人もの政治犯が処刑された。あまりにも多くの血が流れたために、処刑台の置かれた広場は悪臭にまみれ、移転しなければならなかった。
(俺は死刑には反対だ。犯罪者は心が弱いだけなんだ。だが、徒党を組み、好き勝手な主張で、まとまりを乱す連中は許せない。これは殺人ではない。天罰だ。自業自得だ)
血にまみれた両手で死体をかき分けながら進んでいく。
遙かなる地平に浮かぶ理想郷を目指して・・・・。
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夢を見た。
薄汚れた男が床を見つめて座っている。
完全に心を閉ざし、悲しみも怒りも喪失していた。
死・・死ぬの?
死ぬつもりなの?
手を伸ばすと、男は光の粒となって四散し、消えてしまった。
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ルイーズは目覚め、決意した。
(ルイに会いに行こう。今すぐに)
そっと馬の首を撫でながら手綱を掴んだ。
体の底から沸き起こる焦燥感。急がなければ間に合わない気がした。
馬屋の入り口で、フランソワが待っていた。
「帰ってくるのか?」
ルイーズは帽子の下で微笑んだ。
「何言ってるの?パリまでそんなに遠くないじゃない」
「そういう意味でなく・・・つまり・・」
彼は唇を噛んだ。
「つまり、あいつが君を引き留めたなら、俺には取り返す力はない。あいつが君に復讐するために死刑宣告をしても、俺には助ける力がない。頼む、危険なことはやめてくれ。なぜいまさら会いにいく?君は彼を甘く見ている。あいつが昔と同じ人間だと思ってはいけない」
ルイーズはブーツに包まれた足で鐙(あぶみ)を踏むと、身軽に飛び乗った。
「わかっているわ。でも・・・ごめんなさい、行かせて。昔の約束を思い出したのよ。私達2人にしかわからない話だけど。もう二度と会えなくなる前に約束を果たしておきたいの。今ならまだ間に合うかもしれない」
それから身を乗り出してフランソワの頬に接吻した。
「帰ってくると約束するわ・・・心配しないで」
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朝靄が木立の間を渦巻きながら流れた。
まだ夜も明けきっていない時刻・・・・道は乳白色のベールで寸断されていた。
音もまた霧に吸い込まれ、自分の吐息しか聞こえてこない。
ルイの行く手で灰色の影が動き、進路を阻むかのように動きを止めた。
彼はとっさに銃を向けた。
「誰だ」
ゆっくりと・・・落ち着いた歩調で馬がやってくる。
鞍の上に、女の輪郭らしきものが見えた。
その顔が記憶の中の顔と重なったとたん、息を飲んだ。
ルイーズ。
「なぜ銃を向けるの?」
相変わらず銃口が向けられているのを見て、ルイーズが言った。
「議員の1人が暗殺されかかった」
「たくさん殺したんでしょう。あなたにも身に覚えがあるのね。」
ルイはようやく腕を下ろした。
「用件は?」
質問には答えず、ルイーズは今来た道をふりかえった。
「パリは意外と静かなのね。人が沢山死んでいると聞いていたのに」
「行くところへ行けば見られる、見たいのか」
「いいえ・・・噂だけで十分。今日は何人死ぬの?。どんな気持ちがするのだろう、自分にだけ明日が来ないとしたら。」
ルイは顔を顰めた。
「で、何の用だ」
ルイーズは馬の鞍に結びつけた荷物の中から原稿を取りだした。
「これ、あなたが送ってくれたんでしょう?。差出人不明でも誰の作品か、すぐわかったわ。約束だから・・・8年もたってしまったわね。」
ルイは微かに頷いた。
「約束した通りだろう?。感想は?」
「うれしかった・・それだけ」
眉を寄せて反論しかけたとたん、ルイーズが身を乗り出して首筋に触れた。
一瞬手をふり払うかに見えたが、彼は目を逸らしただけだった。
張りつめたものが崩れる・・。直視していると、自分の内側の防波堤さえ壊れてしまうような。
「もう詩は書かないの?」
「とてもではないが、時間が取れそうにない」
「そう・・・残念ね。最近書いたものが見たかったのに」
2人は並んでゆっくりと馬を歩かせた。
「君は俺の敵か、味方か・・・」
「どっちがいい?」
「敵なら売っても余るほどいる」
「私が敵か味方か、あなた次第だわ」
霧が薄らいでいく。木立の彼方にパリの町並みが見えた。
「1人で来たのか。よくフランソワが許したな」
「彼は昔と変わらないわ。木から飛び降りたら、受け止めてくれたあの頃と。自分が落ちそうになって私を道連れにして、しかも落ちたのを私のせいにしたあなたとは大違いよ。」
「あの時は君が飛び降りてきて枝が揺れて・・」
「早く下りろ、と急かされたから・・・」
「自分ばかり高い枝に登ったくせに・・・俺も登りたかった」
「すぐ人のせいにする・・。ちっとも変わっていないのね」
2人は顔を見合わせて笑った。ルイは一瞬現実を忘れた。少年時代を思い出すのは最初に故郷を出て以来のことだった。笑っていても、昔のような無邪気さは取り戻しようがない。
言葉の端々に、懐かしさとも痛みともつかない思いが付きまとう。
(後悔している?。自分の人生に)
(いや)
(それなら私も後悔しない)
言葉に出せば、あの時の痛みが蘇る。自分を支配する傷跡が。
誰を責めるでもなく、何を恨むでもなく、ただそれは存在した。
失われたもの、取り返しのつかないもの。亡骸ともいえる感情に哀惜の思いが募った。
過去でありながら、荒野のような意識の中に、瑞々しく光を放つ記憶。
見つめているうちに目が眩んでくる、あの昼の光の残照。
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すでに街は目覚めていた。ブリキの給水器を背負い、朝食用のカフェを売り歩く人の声、近郊の農家から来たミルク売り。ドアが開き、眠そうな顔で買い求める人々。朝っぱらから言い争う声に犬が吠える。
毛布の埃を払おうと窓を開けた女が、ルイ達を見て隣にいた男に何か囁いている。
窓からこちらを窺っている好奇心、恐怖と敵意の入り交じる視線。
(へたなことは言うなよ、命が惜しいなら)
(この間も議員を批判した奴が連れて行かれたまま戻って来ない)
(今日も広場で処刑があるよ。よく飽きないもんだ)
「目立つのね」
ルイは平然と前だけを見て馬を進めている。三叉路まで来たとき、ルイーズは自然と反対側の道へ向かった。
気づいて、ルイが追いついた。
「もう用は済んだのか?」
「ええ、元気な顔を見たから・・・ずっと走って来て疲れた。少し休んでから帰ることにするわ。」
「どこで?」
「後で連絡するから、待っていて。」
そういって、ルイーズは軽やかに身を翻した。