少年サン・ジュスト④
草原を渡る風の女神の指先が、17歳の少年の体を撫でた。
遮る物のない太陽は、白い光が溢れる窓のようだった。
その太陽の前を、高慢なトビが横切っていく。
猛禽類の落とす鋭いシルエットが、一瞬だけ日差しをさえぎった。
光は強かったが、草はほどほどに冷たかった。
ルイは草の上に寝転がった。
「あ~あ、自由な時代がきたら、俺も本ぐらい出版できるかな」
ルイーズは微笑む。
「でも、いくら才能があっても出版しなければ始まらないし。
こんな田舎じゃ読む人もいないし・・パリまで行かなければダメね」
「パリは遠いな。どんなに近くても、あの雲ぐらい遠い。」
少年は太陽に向かって大きく腕を伸ばした。距離のことではない。
村から村へ往復しているに過ぎない日常にとって、都は彼方の存在だった。
「本音としては、私1人が読者でいたいな」
「それは困る。有名になりたい」
どうやら眠ってしまったらしい。誰かの気配を感じて、ルイーズは飛び起きた。
大きな影が顔の上に落ちた。背後で笑い声がする。みるみる恥ずかしさで顔が赤くなった。
急いで皺になったスカートを整えた。
「見ていたのね。」
フランソワ・トランがしゃがみ込んで笑っていた。
「近道しようとこの草っぱらを歩いていたら、偶然見かけてね。 仲良くお昼寝とは・・・・
楽しいデートでしたか?」
「小説を読んでいただけなのに。」
「君たちなら愛し合うというより、口喧嘩していてもおかしくないけどね」
ルイーズは先ほど「つまらない」と突き返された原稿を胸に抱いた。
何だか笑いがこみ上げてきた。
「・・・かもね。」
「こいつ、まだ寝てるよ。」
フランソワは「送っていく」と言って、半ば強制的にルイーズの腕をとった。
「ちょっと待って。ルイが・・・。」
「置いていけばいい」
その時鋭い声が飛んだ。
「勝手に置き去りにするな」
ルイが2人に向かって身をよじるように半身を起こしかけていた。
ルイーズは腰を浮かしたまま、フランソワは腕を掴んだまま動きを止めた。
何か危険な気配を感じて、急いでルイーズが言った。
「あなたも参加しない?フランソワ」
彼は鋭利な視線を断ち切るように頭を振り、
「読書は苦手だから。じゃあね」
と、どこか真剣な口調で言い残して立ち上がった。
「不愉快だ」
ルイは切りつけるような目でフランソワの背中を見送った。
「こんなところで寝ている方が間抜けよ。さ、続けましょう」
ルイーズは殊更に真面目な表情を作って、原稿に目を落とした。
眉間にしわが寄っている。ややあって、表情がほころんだ。
「この新しい作品、ユニークでおもしろい」
「な?。」
「戯曲にしてみようかな」
「書いてみたら?。読むから」
「うん。気が向いたらね」
結局ルイを家まで送った後、待ち伏せしていたフランソワに捕まってしぶしぶ家までエスコートされるはめになった。
ちょうど帰宅したジュレ氏が、フランソワが半ば言い争うようにしてルイーズと別れ、帰っていった後ろ姿を見ていた。
「トラン家の倅なら悪くないな。あいつの家は裕福だ」
「会っていたのはルイの方。フランソワとは途中で出会っただけ」
「惚れてもいない男に会って何がおもしろい?。それに今は取るに足りない貧乏人だ。そのような奴を婿に迎える事は許さない」
ルイーズは
「作品には惚れています。いつか出世するかも・・」
と肩をすくめた。
ジュレ氏は出迎えた妻に上着を渡した。
「おまえたちは幼なじみでよかったな」
「それはどういう意味でしょう」
夫人が尋ねた。
「幼なじみなら周囲も大目に見て、あらぬ噂も立てないだろう。トランか。トラン家のフランソワなら釣り合うな、うん。」
送り届けたのがフランソワであることに安心したのか、父親はそれ以上追求する気もなく、食卓に置かれたワインに目をやった。
「飯だ。飯を早くしてくれ」
気の短い主人のために、女中たちがバタバタと走り回った。
「最近パリでは食糧不足が問題になっているらしいな。あそこの連中は小麦粉も胡椒もその日使う分だけ買って、貯蓄することを知らないから 品薄になればイチコロだ。その点地方はいい・・何だかんだ言っても 喰うには困らない。うん、美味い」
ジュレ氏はプレ・ココット(鶏の蒸し焼き)を頬張りながら呟いた。
全国的な不作のために、村を出れば飢えた者がいることなど、この裕福な男には無縁であった。
ある朝。
「しばらく帰らない」
説明抜きでルイが宣言した。
「しばらくって、どのくらい?」
ルイーズが反射的に尋ねた。
「半年」
「半年?」
「自由についての新しい解釈を論文に書こうと思って」
「つまらなそう」
「論文だからね。オラトリオ会には物わかりのいい教師がいるので、彼に提出する。添削もピエールに頼む。ここだと気が散ってしょうがないんだ」
「私のせいだって言いたいの?。いいわよ、好きなだけピエールと遊んでなさいよ」
と言い返し、自然とこみ上げる侘びしさを押し殺した。
「お互いの作品を読むことできなくなるね」
ルイは馬車から顔を突きだし、思い切り美しい作り笑いをして見せた。
「フランソワに読んでもらったら?。きっと心から誉めてくれるよ」
「いい性格しているわね。そのうちいいことが起きるわよ」
「俺もそう思う。」
扉が閉まり、同乗していた友人のピエールの笑い声がした。
「好きなだけ笑うといいわ」
ルイーズは苦笑した。
ルイは揺れている馬車、窓枠の内側で絵のような横顔を見せている。
気づけば、彼は少年の域を脱しようとしていたし、彼女もまた認めたくないにもかかわらず、少女という言葉が似つかわしくない年になろうとしていた。
年長の分だけ、変化は大きい。いつしか日焼けの跡は消え、肌が白くなるにつれ、そばかすの色も薄くなった。少年たちの肌が濃くなるのと対照的に。
はじめて頬にパウダーを載せた。唇にも紅をさすと、肌の白さが引き立った。鏡の中にいる自分と内面との自分が、これでまた少し歩み寄りを見せた気がした。
ルイーズは、柳の葉が水に流されるように昔遊んだ川の岸辺を歩きながら、どこかにいる自分に似た少女を捜していた。
魚がはね、水しぶきが上がり響く歓声・・・あの時と同じように、さりげなくフランソワが来て横に並んだ。
特別挨拶もなく、目と目を合わせただけで。
「最近ルイばっかり構うから、ちょっと妬いてるんだ。あいつの真似をして、詩を書いてみた」
「・・・珍しいわね」
フランソワは苛立ちを含んだ笑みを浮かべた。
「君は将来、パリに出て、ルイの編集者にでもなるんだろう?あいつの作品が有名になるために身を粉にし、日々あいつを励まし誉めちぎる。すてきだ!俺も収税吏になったらそんな秘書が欲しいよ。女房でもいい」
2人は水車小屋の脇で立ち止まった。規則的な水音が、2人の会話をかき消した。
「パリに行ったら手紙書いてくれ。きっと君は手紙も小説も書く気がしなくなるだろうから、今のうちに頼んでおく。これは約束だから、忘れるなよ」
「何でそう思うの?」
ルイーズは、尋ねた。
「あいつはルソーを崇拝している。ルソーがどんな男か知っているか?。思想のためなら女房に子供を捨てさせるような男だ。それでも女房は捨てられるのが怖くて黙っていた。そんな情けない女になりたいのか?」
2人はちらっと睨み合った。
「ひどい話ね。私がいつルイの女房になるといった?。仮になっても、そんな都合のいい女なんかにならないわ」
ルイーズは緩やかに結い上げた髪が、風にかき乱されるのを感じた。
後れ毛が首筋にからむ。
「人間は贅沢なものね。自分が自分でいるために、名前や顔や声、地位や身分を必要とするけれど、それだけでは物足りなくて、考えたり話したり、夢見たりすることも必要なの。私が誰かに見捨てられるのが怖くて考える力を失ったとしたら、それはもう私とは言えないわ」
「ルイはきっと君を踏みにじって捨てるよ」
「焼き餅は見苦しいわ、フランソワ」
ルイーズはフランソワを置き去りにしたまま、再び歩き出した。
煌めく水面の上に、彼の黒い影が遠ざかった。