英国議会の歴史

                      
 黒き川テームズの岸。地下鉄の入り口を出るとすぐに、金褐色の壮麗なビックベンが見える。その建物こそ英国国会議事堂(The House of Parliament)、
 正式名称は「ウェストミンスター宮殿」である。金褐色の建物は、向い側にあるウェストミンスター寺院の白大理石に映えて、何とも美しい。
 その間にある道路をぶらぶら20分ほど歩くと、大英帝国の夢の後であるトラファルガー広場とナショナルギャラリーに突き当たる。

その1,議事堂の歴史
 その正式名称からもわかる通り、ウェストミンスター議事堂は、もとは宮殿であった。
 建築は11世紀に始まり、徐々に増築を重ねて行く。
 1529年、ヘンリー8世がロンドンにおける宮殿をホワイトホール宮に移すまでは、
 宮殿として機能していた。しかし宮廷が去ると、いつしかそこは政治の舞台となった。
 たとえば、13世紀ヘンリー3世の建設したプリンス・チェンバーは元礼拝堂であったが、 17世紀には委員会室に。王の広間ペインテッド・チェンバーは、ヘンリー7世によって貴族院議会となったが、後に貴族院(上院)庶民院(下院)の調整委員会が置かれるようになった。
 18世紀に、王妃の居室であったクィーンズ・チェンバーもまた、貴族院議会場となった。
 しかし現在の建物は、大半が1834年の火災の後、再建されたものである。
 往年のもので現存しているのは、大ホールと聖スティーブン礼拝堂だけである。

その2,議員のメンバー
 1911年法改正により、庶民院(下院)が貴族院(下院)よりも権限が強くなるまで、政治の舞台はもっぱら貴族院だった。
 では、どんなメンバーが議員になるのだろう?
 1つは当然「貴族」である。これは代々爵位を受け継いできたタイプと、新しく国王が貴族に指名した「世俗貴族」のタイプの2つに分けることができる。
 どっちにしても、議員は18歳以上の成人男子で英国人、しかも英国国教会への忠誠の宣誓を行ったものに限られた。
 17世紀まで議会は国王の影に過ぎず、エリザベスの時代ではたったの59名しかいなかった。ところが17世紀、議会はいきなり歴史の表舞台となる。
 ジェームス1世の代には、2倍近い104名に増えた。チャールス1世に代ではついに2倍を越えて149名を数えることとなる。
 もう1つのグループは聖職者。2名の大主教と24名の主教である。
 特にトップのカンタベリーやウィンチェスターの主教の地位は、見入りが多く 魅力的な地位だった。逆にウェールズあたりの主教はトップの10分の1という収入の低さで、議員としての対面を保つのも苦労したほどだという。
 そこで底辺の主教たちは、少しでも上に這い上がりたい一心で、国王に忠実であった。

その3,議員の席
 議会ホールのどこに議員が座るかについては、1539年、ヘンリー8世によって厳格に決められていた。
 まず最も奥の中央に玉座。玉座に向かって右側が聖職者議員用の席である。
 国王の近くに、カンタベリーとヨークの大主教が座り、暖炉を隔てた2つのベンチに、その他の主教たちが座った。
 一方貴族たちは、玉座から見て左側に着席した。玉座手前の2つのベンチと、書記のテーブルを挟んで7つのベンチがそうだ。
 玉座手前2列のベンチは「伯爵席」で、大法官と公、候、伯爵などの大貴族が座る。

 その後ろの7つのベンチは「男爵席」。特に書記の真後ろにあるベンチは子爵のためのものだったが、伯爵席から溢れた人も座ったという。

 18世紀になると、これら議会席をグルッと囲んだ手すりの向こうに、4列からなる「傍聴席」も設けられた。初めは議員たちの間から「俺たちは見せ物じゃない!」という声もあがった。

 18世紀から盛んになり始めたジャーナリスト達によって、討論の内容が外に漏れるのもうざったらしく、1711年には強引に撤去されたが、1737年には復活し、1740年にはまたまた撤去された。

 ところで国王が正式に出席する時は、別室で正装し、王冠も輝かしく玉座につかねばならなかったが、そうした面倒をはぶくために、「お忍び」で出席することもできた。

 そうした時は玉座には着かず、玉座の右側、暖炉そばの特別席に座ったという。

 

参考資料
イギリス議会制度の形成 松園伸 早稲田大学出版部
イギリス史 大野真弓著 山川出版
エリザベスとエセックス R・ストレッチー 中央公論社