トーマス・ワイアット/作者不詳/ロムニー伯コレクション
ワイアットの反乱は、前述の4つの反乱とは異なり、民衆内部からの自発的な蜂起ではない。
反乱は、ここにきて政争の色彩を帯びたクーデターへと変化していくのである。
したがって、ワイアットの乱は民衆には支持されなかった。
では、そうまでして一人、蜂起した理由はなんだったのか?
トーマス・ワイアットの父/大トーマスは、詩人であるのと同時に対フランス外交団の一人でもあった。若い頃にあのアン・ブーリンに言い寄って詩を贈り、アンの失脚にあやうく巻き込まれるところであった。恩寵の巡礼の乱ではリンカシャーで鎮圧のために働き、その功績で1537年サーの称号と、ケント保安官の地位を得た。
息子のトーマスは、外交官だった父に伴われて、早くから大陸に渡っていた。
フランス・スペイン・スイスでの生活を経験したが、それは彼の国際性を磨くというよりは、より愛国的な傾向を強める結果となった。とりわけスペインでカトリック教会とトラブルを起こし、異端審問にかけられそうになった以降は、愛国心に排他的な傾向が加わった。
そんな息子を憂えてか、父・大トーマスは、息子をわずか16歳でジェーン・ハワットなる少女と結婚させる。
2人の間には10人もの子供に恵まれるが、それでじっとしているような男ではなかった。
1542年、父の死に伴い、アリングトン城とケントの保安官の地位を受け継いだ。
トーマスはわざと宗教的なものを侮辱するような行動に走った。
1543年、注)四旬節の間、悪友のサリー伯ヘンリー・ハワードとともにロンドン市内を暴れ回り、教会や民家のガラスを破壊した。翌4月1日、彼は逮捕され、破壊行為のみならず、注)四旬節で肉を食べた罪も問われ、ロンドン塔に投獄されてしまった。
約一月後に解放されたワイアットは翌1544年、サリー伯とともにフランス戦線ブローニュ包囲作戦に参加し、1550年、ブローニュが英国側の手に譲渡されるまで、その地に留まった。
サリー伯は1545年6月、国王ヘンリー8世に向けた手紙の中で、ワイアットの活躍ぶりを
" hardiness, painfulness, circumspection, and naturaldisposition to the war"
(戦場においては力強く、慎重に苦痛に耐え忍び)と絶賛している。
553年、エドワード6世の崩御にともなう王位継承争いでは、ワイアットはメアリー1世女王を支持したが、とくにこれといった報償も受けなかった。
彼はケントの保安官の職を辞し、自分の城であるアリングトン城に閉じこもった。
翌1554年1月、メアリー女王は、スペイン皇太子との婚約を発表した。
プロテスタント系貴族やジェントリーの間に動揺が走った。
次々と陰謀計画が飛び交った。ジェームス・クロフトらは蜂起しようとしたが、足並みが揃わず失敗した。そんな中、ワイアットの計画だけが、彼の強いリーダーシップのもとに、着々と進められていった。
ワイアットは、英国女王とスペイン王子フェリペとの結婚は、祖国に対する侮辱であるのと同時に、国の独立性とプロテスタンティズムの危機だと感じていた。
彼はアリングトン城に密かに同調者を集め、大胆な計画を練った。本拠地はロチェスター、集まった民兵5000人の他、1500人が彼の指示ですぐ動けるように待機していた。武器・弾薬、大砲は、秘密裏のうちにロチェスターの橋と、郊外
側の岸にそって組み立てられ、配置された。
また、フランス大使を通して、フランスの支援を要請した。在英フランス大使ノアイユは、本国へ「homme vaillant et de bonne conduicte(この勇敢なる人々)」と報告している( (Ambassades de Noailles, iii. 15, 46)
ケントでの反乱を聞いた女王メアリー1世は、24時間以内に武装解除をして各々自宅へ帰れば恩赦する、と発表した。
女王の特使は、ロチェスターへの道すがら、ワイアットを支持する小グループを解散させた。ロバート・サウスウェル卿は、ケネベットの反政府グループを解散させ、アヴァガベニー卿は、ワイアットの友人であるイスリーの軍を破った。
カンタベリー市民は、ワイアットの行為を嘲った。
ワイアットは「フランスから援助が来る」と、しきりと仲間を説得したが、もはやこれまでか、と絶望的気分に陥った頃、意外な味方が現れた。ロンドン市内で、500人のワイアット支持派が決起したというのである。
1554年1月29日、彼は4000名を率いてロンドン郊外ブラックヒースの丘に布陣した。
2月1日、メアリー1世が自らロンドン市庁舎に赴き、首都が反逆者によって危機的状況にあることを訴えると、20000の市民が民兵に志願した。宮廷とロンドン・ブリッジが特別警戒態勢に入り、ワイアットの首には多額の報奨金がかけられた。
同じ日、ワイアットは何とかサザークに入ったが、仲間達は次々と脱落していった。
5日後、ワイアットはキングストンまで進撃し、翌日メアリー1世がいるセント・ジェームス宮殿目指してハイドパークからケンジントンへと進んだ。
8日の深夜2時、テームズ川を渡ろうとしたが、橋門はガッチリ抑えられていた。
ワイアットは銃弾をかいくぐって強引に渡った。すでにその段階でほとんどの部下が逃げ去っているような状態だった。
その直後、ワイアットは逮捕された。
ロンドン塔に投獄された彼は、関係した人物の洗い出しのため、入念に調べられた後、ウェストミンスター法廷において、反逆罪で死刑を宣告された。
4月11日、ワイアットはタワーグリーンで斬首刑に処せられる。
その首はハイドパークで晒され、胴体もまた反逆者のなれの果ての姿として、各地の地域で晒しものにされたという。(M・Achynの日記)6日後の17日、その生首が何者かの手によって盗み出されたという。
注)四旬節 (Fastenzeit / Quadragesima / Carena)
イエスはヨルダン川でヨハネに洗礼を受けた後荒野に向かい、そこで40日間の断食を行った。そこでイエスは様々な悪魔の誘惑を受けながらもそれに打ち勝つのだが、このエピソードにちなんで復活祭の前に断食を信者に義務付けることがAC325年ニケーアの公会議で決まった。その後AC600年頃に法王グレゴリウス一世が断食期間を40日間と定めた。
その時に、復活祭から数えて6週間遡った日曜日(=現在の四旬節最初の日曜日)に40日間連続の断食が始まることが決められた。
しかしその後1091年にベネベント(イタリア中南部の都市)の教会議でイエスの復活を祝うため、各日曜日は断食期間から除外されることとなった。
以来正式な四旬節は灰の水曜日から始まり、復活祭直前の聖土曜日に終わることとなっている。
断食中キリスト教徒はワイン、肉、卵、乳製品などを慎まねばならない。
(魚は食べてよい。)またこの間十分に食べていいのは1日に1度だけで、あとは腹ごなしに2度何か食べることが許されているのみである。
カトリック教会は今日でも18歳から60歳までの全カトリック教徒にこの断食期間を守るよう呼びかけている。
(=大斎)
魚を食べていいのは魚が血を流さないためで、伝統的には四旬節の間ニシン料理がよく食べられる。
これは謝肉祭の間に食べ過ぎた体から、ニシンが老廃物を効率的に取り除いてくれると信じられていたことが理由のようである。
断食は食の享楽から遠ざかることで精神を清め、集中力を高めて復活祭に備えることにある。
その他性的誘惑を退け、沈黙を守ることも奨励されている。
参考資料
/David Michael Loades (University of Durham), Encyclopaedia Britannica (1972)
Life in Tudor Times by Jorge H. Castell