第3代ノーフォーク公トーマス・ハワード
ヘンリー8世の「宗教改革」なるものは、実際のところ英国内における権力の独占に他ならなかった。
宗教的・思想的には、ヘンリーはプロテスタントを信奉するどころか、逆に敵視していたのである。
それは歴史的な絶対主義への流れの一環だった。英国には、フランスのような、国王をトップにした官僚機構による、軍事も掌握した絶対王政は芽生えなかったが、少なくとも宗教面だけは、「絶対主義」だったといえよう。
英国には常備軍というものは17世紀まで存在しなかった。
それですら、ルイ14世が動かせた国軍が10万人以上であったのに対し、その半分以下であった。
ましてチューダー王朝では、ほとんど存在せず、民兵組織か、貴族・ジェントリーらの力を借りねばならなかった。
従って、貴族・ジェントリーらの発言権の強さはフランスの比ではなかった。ローマ法王に対する敵視も、ヘンリーだけの意志ではなく、背後には土地を独占しようとするかれらジェントリーの要請があったのである。
しかし全ての貴族がヘンリーを支持するはずもなかった。特にカトリック信者の多かったヨークシャーを中心とした北部では、エリザベス朝の半ばに至っても、法王への信奉が篤く、エリザベスに対する反発も強かった。
なぜなら、エリザベスはヘンリー8世の庶子扱いだったからである。
1568年、スコットランドから女王メアリー・スチュアート(ステュアート)が亡命し、エリザベスに監禁されるという事件が起きた。カトリック側の主張では、このメアリーこそ、英国の正当な王位継承者であった。
北部の大貴族は、メアリー救出のために、策動し始めた。カトリック勢力を代表するスペインもまた、かれらを援助すべく、密かにスペイン大使デ・エスペスを接近させた。
エスペスは3人の有力者と接触し始めた。1人はウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィル。2人目はノーサンバーランド伯トーマス・パーシー。パーシーの父は、恩寵の巡礼の乱で恩赦の約束があったにもかかわらず、ヘンリー8世に裏切られて処刑されていた。
3人目は第3代ノーフォーク公トーマス・ハワード。彼はイースト・アングリア地方最大の貴族で、エリザベス自身の遠縁でもあった。
メアリー・スチュアートは、スペイン大使を通して、ハワードと再婚したい、との旨を伝えてきた。
もちろん、そのためにはまずエリザベスを倒し、メアリーを解放しなければならなかった。
カトリック系貴族が3人のもとへ集結してきた。ウェストモーランド伯の兄弟、ジョージやチャールス、ノートン、サセックス、テンペスト、スウィンバーンなどの豪族たちも協力を申し出た。
1569年、時期はわからないが、おそらく秋口に、かれらはノーサンバーランド伯の屋敷で初めて秘密集会を行った。
「"We, Thomas, Earl of Northumberland, and Charles, Earl of Westmorland, the Queen's true and faithful subjects, to all that came of the old Catholic Religion, know ye that we, with many other well-disposed persons, as well of the Nobility as others, have promised our Faith to the Furtherance of this our good meaning.
(我らノーサンバーランド伯トーマス、及びウェストモーランド伯チャールスは、女王の真実と、全てにおける古きカトリック信仰の到来という主題に忠実になるべく、すでに承知の通り、他のよき心がけをもつ高貴なる人々より、我々のよき意味合いに対する信頼のおける助けを約束している。)The life of Tudorより、秘密会議での発言/訳および抜粋/著者」
しかし、かれらの計画を、エリザベスは薄々気づいていた。女王代理で北部長官だったサセックス伯は、10月セシル大臣のもとに報告を送り、しばらく静観する構えだった。
エリザベスはノーフォーク公を召喚した。しかし、ノーフォーク公は謀殺を恐れて仮病を使って拒絶した。
何度も催促が来て、これではかえって怪しまれると思った彼は、仲間に蜂起は待つよう伝えた。
「今蜂起したら、私の首が飛ぶ。これから参内するのだから」と、義弟に書き送った。
10月8日、エリザベスは彼が宮中につく前に逮捕し、速攻ロンドン塔へ幽閉してしまった。
ウエストモーランド伯とノーサンバーランド伯はむざむざ殺されるのを潔しとはしなかった。
2人は予定通り、反乱の準備を進めた。
しかしセシル大臣は慎重だった。「ノーフォーク公の事例にかかる陛下への私的助言」と称する進言書をエリザベスに渡し、その中でこう述べた。
「スコットランド女王もノーフォーク公も危険人物であることに変わりありませんが、かといって明白な反逆罪の証拠もなく、裁判にかけても無罪になり、かえって公の恨みが増して、反逆者になるやもしれませぬ。いっそ裁判などやめた方が得策です。」
エリザベスはそれを読み、
「ならば、私の権限で、今すぐあの男の首をもらってやる!」
と叫び、怒りのあまり卒倒してしまった。
パーシー家の紋章
1569年、11月16日、2人の伯爵率いる反乱軍はダラムの街へ入った。
そしてまずダラム大聖堂に向かった。反乱軍の指揮者の一人、老ノートンが金の十字架をかかげ、その後ろから「恩寵の巡礼軍」の旗(キリストの5つの傷に囲まれたThe Lordの文字のある旗)が続いた。
かれらは英国国教会が定めた英訳聖書とプロテスタントの祈祷書を破り捨てた後、祭壇を破壊した。それからかつてプロテスタントに破壊された古い祭壇を探した。祭壇の基礎石の一部は牧師の家の壁材に使われていた。残りの部分は中庭の、ゴミの下から発見された。多くの住民が参加して祭壇を掘り起こし、石職人も手伝って、恭しく組み立てた。
人々は感動のうちに、ミサを執り行い、禁じられていた賛美歌を高らかに歌った。それはヘンリー8世に虐殺された恩寵の巡礼軍への哀悼の思いであるのと同時に、カトリック信者達の独立のしるしでもあった。
続々と近郊から援軍が集まってきた。最終的には1700の騎兵と4000人の歩兵が集まった。
反乱軍は翌日南下を開始し、ダーリントンへ、11月20日にはリーポンに達した。
通過する村々で、古き信仰が息を吹き返した。リーポンの大聖堂では、夫の無事帰還を祈ってノーサンバーランド伯爵夫人がミサに出席した。
そして反乱軍はメアリー・スチュアートを救出するためにタドベリーに向かったが、すでにメアリーはさらに南へと移送された後だった。しかも、ヨークシャーでは、ウオーリック伯率いる女王軍7000が南下してくるとの知らせがもたらされた。
このままでは挟み撃ちにされる危険があった。また、南部には北部とは異なり、プロテスタントも多い。ノーサンバーランド伯とウエストモーランド伯の2人は、一時退却を命じた。
しかし、反乱軍には脱走が相次ぎ始めた。12月の中頃には反乱軍はもはや戦える状態ではなく、ウエストモーランドはオランダのスペイン領へと亡命した。ノーサンバーランド伯は愛する妻をスペインへ逃がした後、自らはスコットランドへ撤退した。
しかし2000ポンドの金に目の眩んだスコットランド人の手で1572年、英国側に引き渡された。
彼は1572年8月、ヨークで処刑される時、「自分はパーシー家の男として生き、パーシー家の男として死ぬのだ」と叫んだという。
最後の戦いはレナード卿の所有するナウワース城が舞台だった。ここで3000人の反乱軍兵士が女王軍相手に戦った。
その中には、多くの女性も参加し、男達を鼓舞したという。
エリザベスは反乱軍参加者のうち、裕福な豪族達は、身代金と引き替えに命を助けた。
しかし貧しい者達は見せしめのために虐殺することに決めた。1570年1月10日、エリザベスは700名の兵士を処刑するようサセックス伯に命じた。それらの人々は、ケットの乱と同じく、囲い込みによって土地を奪われ反乱軍に参加した貧農達であった。
ロンドン塔に捕らわれていたノーフォーク公もまた、1572年6月2日処刑された。
乱の終結後、プロテスタント側の残忍な報復が始まった。
ヨークシャーでは、28人の僧侶が絞首刑の後、八つ裂きにされた。そして11人の一般市民が僧侶を保護した罪で処刑された。
女性といえども、容赦はされなかった。
参考資料/The Life of Tudor by Jorge H. Castelli
イギリス議会制度の形成 by 松園伸
女王エリザベス by クリストファー・ヒバート/山本史郎・訳