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フランシス・ウォルシンガム

  Francis Walsingham
   (1530~1590)

 

 

 

 

 

           

 

 

 

 

ウォルシンガム/デ・クリッツ作1587/
ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵


 映画「エリザベス」を見た人なら知っているだろう。
 エリザベスの即位とともに、亡命先から帰国途上、自分を刺そうとして躊躇する側近の少年を、許すふりをして喉を切り裂く冷酷な男。それがエリザベスの「秘密警察長官」フランシス・ウォルシンガムである。

 ウォルシンガムは15世紀からケントに土地を持つ、裕福なワイン製造業の家に生まれた。
 実父はワイン製造の傍ら弁護士でもあったが、彼が13の時に亡くなり,母は第一代目ハンスドン男爵と再婚。

 フランシスもまた連れ子としてハンスドン家で成長した。

 彼が23歳の時、カトリック推進政策をとるメアリー1世が即位したために、熱心なプロテスタントだったフランシスは1555年イタリアに渡り、民法の研究に明け暮れた。
 1558年、エリザベスの即位と同時に帰国し、自領のあったケントに引きこもった。
 翌年、セシルの推薦により、エリザベスの側近として初めて歴史上にデビューした。

 フランシスは亡命の経験を生かし、自らヨーロッパで諜報活動に励み、英国内で独自の諜報ルートを確立する。常時70人以上のスパイを各国宮廷に潜入させていた。「007」のご先祖といってもいいかもしれない。

 1570年夏、駐仏大使としてフランスに渡った彼は、聖バルトロメイの虐殺の直後、フランスは国内問題で手一杯であり、英国を侵犯する恐れはない、という報告を送った。その功績で、1573年、外務専門の国務大臣に指名されている。

 ウォルシンガムは、しばしばエリザベスをも欺いた。
「決断の遅い女王に任せておいては仕事がはかどらない、女王には問題のポイントだけ知らせておけ。後はこっちでやって、結果だけ知らせておけばよい。それでもガタガタ言うようなら、適当にレポートをでっち上げておけ.」

 実際彼は部下のハンティントン伯に、そのような指示を送っている。
 もちろん、それで騙されるようなエリザベスではない。しかし女王でさえ、広範囲なウォルシンガムの情報網やスパイ活動の全貌を把握することはできなかったという。

 1586年、度重なるエリザベス暗殺計画のうち、メアリー・ステュアート(スチュアート)が深く関与している事件の首謀者を捕らえ、拷問の末に、その全貌を明らかにした。
 そしてその報告書を持ってエリザベスに、メアリー処刑の決断を迫った。
 すでに各国に放ったスパイから、スペインがメアリー・ステュアート(スチュアート)救出を旗印に侵犯して来るのは時間の問題であった。

 そうまでして活躍したウォルシンガムであったが、決して報われたとはいえなかった。
 「この悪党」エリザベスはそう罵って、内心彼を嫌悪していた。
 ウォルシンガムが諜報活動のための資金で負ってしまった借金で苦しんでいた時も、エリザベスは無視した。

 見かねたセシルが反逆者の没収された財産を与えてはどうか、と提案した時にも無視した。
「心ないことを・・・」そういって、彼は嘆いたという。

 1590年4月6日、彼は2年の闘病生活の果てに亡くなった。
 英国政府はウォルシンガムの築いた諜報活動網をそっくり受け継いだが、遺族の手元に残ったのは、遺言書に記されていた僅かばかりの金品と、莫大な借金だった。
            
    

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