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    ウイリアム.セシル
     William Cecil
    (1520~1598)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


              
ウィリアム・セシル/ヴァン・ブランクハースト作1560年?

/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

 いったいどうやったら、こんなに太れるのか・・・と疑問に思うほど、英国人はある年齢を過ぎると肥満することも珍しくない。ウィリアム・セシルも例外ではなかった。

 エリザベスに仕え始めたその年、彼は38歳。小山の如く肥え太り、脂ぎった汗を流しつつ、敵からは「異端者ながらも賢明にして徳あり」と評される男であった。

 1520年9月13日、ウィリアムはリンカーンで誕生する。父のリチャードはヘンリー8世の皇太子時代から衣装係として仕え、即位式にも列席して、国王から金襴の服を賜ったという人物だった。

 ウィリアムは21歳で、ギリシャ語教師の妹で、酒屋の娘だったメアリー・チェックと恋仲になり、父の反対を押し切って結婚した。しかし愛妻にはたった4年で先立たれ、今度は父の勧めるままに、ミルドレッド・クックと再婚した。
 クック家はエドワード6世の教育係を務めた名門であり、これで宮廷との繋がりができたのである。

 ウォルシンガムと対照的に、彼はいついかなる時代でも着実に勢力を伸ばしていった。
 メアリー1世
の治世でナイトに叙勲され、枢密院の顧問に抜てきされる。
 賄賂にも恫喝にも屈しない男として、スペインからも一目を置かれた。
「自分の領土については専門家並みの知識を備え、誰に質問しても、女王の知らない答えをする者はいなかった」と評された、エリザベスにはぴったりのパートナーだった。

 そんな彼の悩みは、ウォルシンガムなど他の大臣同様、エリザベスの気まぐれだった。しゃべりたい時に勝手にしゃべり、気が向かなければ書類にサインもしない。仕事がはかどらない!!

 しかしセシルはウォルシンガムのように、小細工を使うでもなく、「女だから仕方ない」と呟くだけだった。
 大臣だけではない。宮中の引っ越しのために呼び出された人夫が、中止になったり再開したりとコロコロ変わる命令に呆れ果て、女王のいる部屋に向かって「はあ~~、女王様つーても、うちの女房と一緒だわい」と怒鳴ったところ、エリザベスは「重大な秘密を口外されないように」笑って金貨を投げ与えたという。

 「神よ、われらが女主人に夫を与えたまえ。」
 セシルは熱心にエリザベスに結婚を勧めていた。もちろん後継者を産んでもらうという目的もあるが、女王の体調の悪さが、孤独の重責にあえぐストレスからくる心身病であることを、鋭く見抜いていた。現在では、エリザベスがストレス性体調不良であった事実は、大方の歴史家が認めている。

 1572年、ウィリアムは大蔵大臣として、国家の財政を司ることになる。
 その一方で、彼は資金面からも実際的行動からもウォルシンガムのスパイ活動を支援し続けた。

 が、エリザベスは税金を使い過ぎる、と言っては激怒し、時には彼を殴りつけ、ウォルシンガムに蹴りを入れ、
「貴様らの首を斬ってくれるわ」と叫んだ。
 一方、機嫌のいい時は「私の可愛い妖精」と呼んで頼りにした。

 「絶望してはいけない。」と、1578年セシルはウォルシンガムに書き送っている。
 「いつか、いつかわかっていただけるでしょう。いえ、陛下がご無事でいられるのも、我々の努力があるからです」

 確かに1570年法王ピウス5世の破門宣告があってから、カトリック側の女王暗殺計画が急増し、それを次々摘発しては未然に防いだのは二人の功績であった。
 歴史学者のオーガスタ・ジャスポは、こう書いている。
 「エリザベス30年の治世の中で、系統的な拷問の使用に関して、セシルがその責任を負っていると言う結論を回避するのは難かしい」

 1590年、ウィリアムは耳が不自由になるが、それでも第一線で活躍し続けた。
 しかし8年後、痛風のために寝たきりとなった。エリザベスはその枕元に付き添い、はちみつ入りのミルクを飲ませるなど、妻のように世話を焼いたという。
 そして8月4日、ついに彼が亡くなった時、エリザベスは声をあげて泣き伏したという。
             

            
       参考資料
    

The Tudor place by Jorge H. Castelli
女王エリザベス(上下) ヒバート著 原書房
エリザベスとエセックス R・ストレッチー 中央公論社

エリザベス1世 英国 女王 チューダー王朝 大臣
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