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 1348年3月、英国を襲ったペストは、またたくまに島を横断して、ウェールズ地方を襲った。
 たったの一年で、30万人の人口が20万人に減少したというから、いかに凄まじかったかよくわかる。そのため、所有者のいなくなった土地を巡って、ウェールズ人と英国人との間で反目が生じた。英国側は、ウェールズ人が土地を分割することを死もって禁じた。

 1400年、リチャード2世が暗殺され、その首謀者ヘンリー4世が即位してまもなく、旧ウェールズ王家に仕えた豪族が反旗を翻した。
 オーウェン・グリン・ダウOwain Glyn Dwrは、北ウェールズ/チェシアの領主であった。
 土地問題でルーシィン城主と争い、ウェールズ自治のために立ち上がった。
 オーウェンの元には、英国に対して怒る農民や他の豪族たちが集結し、次々と英国支配下にある村や町を襲った。その中には、チューダー王朝の祖となるマルドットを含む、ゴロンウィ、エドニフィット、リース、グェリンら5兄弟も含まれていた。

 100年戦争の覇者であるヘンリー皇太子(後のヘンリー5世)すら、その鎮圧には手を焼いたほどだった。
 議会はウェールズ反乱軍を「剥き出しの足をした悪党」と罵倒した。
 農民たちはオーウェンが魔法で守られていると信じ、1402年の彗星を、オーウェンの象徴だと考えた。
 1402年6月、ウェールズに侵攻した英国軍は反乱軍に大敗した上に、夜になって、激しい霰混じりの豪雨に苦しめられた。
 天気すら、反乱軍に味方したかのようだった。さらにオーウェンはスコットランドから支援を受け、フランスとも同盟を結んだ。

 しかしフランスは100年戦争のまっただ中にあり、激化していく英国との戦いの中ウェールズへの支援も先細りになり始めた。
 しかも近くの同盟者スコットランド王まで英国に破れて、ロンドン塔に幽閉される有様だった。
 戦況が不利になるにつれ、寝返る者も出始めた。あのグェリンら5兄弟も、次々戦死するか、捕虜となって処刑されていった。
 1409年、オーウェンの妻マーガレットや娘は捕らえられ、ロンドンへ連行された。

 オーウェンは、英国側との取引を拒んで、1415年姿をくらました。
 殺されたとも、亡命したとも言われているが、定かではない。
 後世、オーウェンの乱を「最長にして最後のウェールズ独立戦争」として、今でも土地の人々は誇りに思っているという。

 1536年、5兄弟の末弟マルドットの子孫にあたるヘンリー8世は、英国支配のために布告した土地所有法を中止し、英国の他州と同等の扱いにしたため、「Act of Union」と呼ばれた。
 それは父祖の地にあたるウェールズに対する、ヘンリー8世の敬意であった。

 

Act of Unionとは。

 1282年、英国に支配されたウェールズは、2つの公国に分割された。
 国王直轄地はウェールズの3/2にも及び、中央より指名された役人が支配した。

 ウェールズ系の血を引くヘンリー7世は、ヨーク側との戦いにおいて、ウェールズの諸公に頼ったため、今まで支配した王室に比べて、ウェールズ人の待遇は改善された。
 ヘンリー7世の後継者ヘンリー8世は、ウェールズ管理官が治安を維持していないとの報告書を受け取った。
 英国内の犯罪者がウェールズに逃亡したというのである。
 その数、殺人犯23名、窃盗犯25名だった。

 また、ウェールズの防衛が外部に対して貧弱であること、管理官の一部がカトリック信者であることから、ヘンリーは危機感をおぼえて、ウェールズ全体を英国の一部として直轄統治することを決定した。
 1536年から1543年にかけて、ウェールズは英国の新たな州となる。
 これをAct of Unionという。ウェールズは他の英国内州と同様、英国下院議会に議員を送る権利が認められた。
 1542年には、地元名士27名が選ばれて議員席を与えられている。
 ただし、議会においても地元裁判所においても、英語の使用を義務づけられたことが、誇り高いウェールズ人にとっては不満であった。


参考資料
/A Brief History of Walesハハ Peter N. Willliams
BBC History of Waies/English Conquest c.1200 - 1415


 

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