コーンウォールの反乱(1497年)The Cornish Rebellion.


 我々がUnited Kingdom 0f Englandと聞いて連想するのは、英国中部とウェールズ、スコットランド、それにイングランドぐらいだろう。ところが実際にはイングランド内部にも、ウェールズと同じくらい独立性に富んだ地方があった。
 それが英国南西部、コーンウォールである。この地方は三方を海に囲まれ、テイマー川によって「イングランド」と隔てられていた。
 その地理的条件からか、ここには隣接する州とは異なる文化と言葉が生じた。
 人々は「コーニッシュCornish 」と呼ばれ、英語とは異なるコーンウォール語を話した。

 黒字に白い十字の「国旗」も存在した。
 9世紀、アングロ・サクソン人の侵攻から逃れたケルト人の多くが、この地方に逃げ込んだという。
 1553年、イタリアの学者ベルギルウスは、著書「Anglica Historia」の中で、「コーンウォールは、ウェールズ、スコットランドに続く第三の国>だ」と書いている。
 また、ヘンリー8世時代の在英イタリア人外交官ファリアは「ウェールズ人とコーンウォール人とでは、あまりに言葉が違いすぎて互いに意志が通じない」と語った。

 

 1997年5月24日、セント・ケヴァン郊外に、ある歴史的事件を記念して、一つの彫像が作られた。
 コーンウォールの乱500周年記念の式典、彫像は乱の指導者として、ヘンリー7世と戦って敗れたマイケル・ジョゼフとトーマス・フラマンクの勇姿だった。
 同じ年の6月、やはり乱500周年記念のため、人々は激戦地となったロンドン郊外ブラックヒースの丘に集まって、戦いに倒れた反乱軍兵士の冥福を祈った。

 すべては1485年、チューダー家のヘンリーがボズワースの戦いに勝ち、英国王ヘンリー7世として即位した時から始まる。 彼は戦功のあった者達を各地の貴族に封じた。コーンウォール側からは豪族ピーター・エタカンブがナイトに叙せられ、王室錫鉱山を監督した。

 コーンウォールが英国の公爵領となったのは1337年のことである。
 ただしコーンウォール公を名乗れるのは、唯一英国皇太子だけだった。
 従って英国皇太子の正式名は「Prince of Wales&Duke Cornwall」ということになる
(ちなみに現在のコーンウォール公はチャールス皇太子)
 ヘンリー7世もまた、長男アーサーを弱冠3歳でコーンウォール公に封じた。

 ヘンリーは当時対スコットランド防衛に追われており、コーンウォール公爵領に軍事費として多大な税と防人(さきもり)を徴収しようとした。しかしヨークシャーならともかく、南西部のこの地方では、スコットランドに対する危機感は薄く、ヘンリーの要求には激しい反発が起きた。
 コーンウォールが重視されたのは、ここに錫鉱山があったからで、たびたび暴動が起きては国王代理で錫鉱山を管理していたエタカンプの屋敷が襲われた。
 1497年、国王徴税官がセント・ケヴァンに来た時、住民は決起した。この時リーダーに立ったのが、コーンウォール方言で「Gof The Smith」と呼ばれたマイケル・ジョゼフと、トーマス・フラマンクであった。
 ジョゼフは鍛冶職人で、フラマンクは土地の有力者サー・リチャード・フラマンクの息子で、ロンドンの王立裁判所の腕利き弁護士だった。

 6月、集まった3000人の叛徒は、貧弱な武装のままデボンシャーとの州境/テイマー川を越えた。途中同じく重税に喘いでいたデボンやサマーセットの住民も巻き込み、豪族サー・ジェームス・オーデリーも参加しつつ、ウェールズに向かう道を進撃した。
 かれらは手製の弓と矢、剣という単純な武装だけであった。フラマンクは国王と交渉するのが目的であって、決して暴力をふるわないよう命じていた。
 叛徒は日々増加しつづけながら、途中何ら邪魔が入ることもなく、6月はじめにはロンドン近郊に達した。

 

 反乱軍は英国軍がスコットランド国境で足止めを食らっていると判断し、ロンドン近郊ブラックヒースの丘を起点に、ロンドン攻略のためデプトフォード橋を占拠したのだった。
 しかし、事実はジョゼフらの予想に反していた。サー・ダーベニー率いる英国軍10000(又は8000)は、まだロンドンに留まっていて、急遽スコットランド派兵のかわりに、反乱軍を迎え撃ったのだ。
 当時は15000人いただろうと言われた反乱軍兵は、最近の研究では実際の人数は、その半分に過ぎなかったのではないか、と言われている。
 1497年6月16日、英国軍はブラックヒースの丘頂上に布陣した反乱軍を包囲し、スタンリー卿を指揮官として攻撃を開始した。
 翌朝6時、槍兵隊が反乱軍の弓矢隊の列を攪乱した。本来であれば、弓矢攻撃は二列縦隊で並び、前列が撃てば、すぐに後列が前進して次の攻撃に移るのが常識であったが、反乱軍はそれだけの要員がいなかった。また、コーンウオールからの支援も、距離的に難しかった。スタンリー軍に比べ、あまりにも条件が劣っていた。
(ちなみに、このスタンリー卿は、チャールス皇太子と離婚した、ダイアナ元皇太子妃の先祖にあたる)
 敵が混乱しているのを見取り、サー・ダーベニー率いる主力部隊が総攻撃をしかけた。
 ジョゼフとフラマンクらリーダーは、グリニッジ方向に逃走したが、すぐに捕獲された。
 この戦いで、英国側がまったくと言っていいほど無傷だったのに対し、反乱軍は200名の戦死者を出した。

 捕らえられたジョゼフとフラマンクは、チューダーの象徴色/緑と白の軍勢に引き立てられながらも、その顔色は自由人だった人々のごとく血色よく、輝いていたという。
 10日後の6月26日、二人はロンドン塔内で、反逆罪で死刑を宣告される。
 翌日27日朝、2人はタイバーンの処刑場において、首を吊られた後、完全に息絶える前に引きずりおろされ,性器を切り落とされ、腹を割かれた後四肢切断。
 その首はロンドン橋に晒された。(この処刑法は、地方の反乱首謀者にはよく適用された。アカデミー賞受賞のハリウッド映画「ブレイブ・ハート」のラスト・シーンにも出てくる)一方途中から参加したオーデリー卿は、貴族特権として、ロンドン塔内で斬首の刑に「減刑」されたという。
 処刑の朝、ジョゼフは民衆の前で、自分たちは英国の王冠に対して試みた行為によってコーンウォールにおいて、永遠に名を残し、讃えられるだろうと叫んだ。

 そして500年後の1997年、コーンウォールのセント・ケバーンの2人の彫像には、こう刻まれていた。
「 This monument was commissioned by the An Gof Sculpture Trust and created by Terence Coventry as a memorial to the Cornish Uprising in 1497 and in celebration of it's 500th Anniversary.」
(このモニュメントは、1497年の反乱500周年記念において、ジョゼフ(及びフラマンク)を記念するためにテレンス・コーベントリーが制作した。)
               
参考資料/Cornwall in Focus by Sinmbo .co.uk
An Gof and the Cornish rebels in Deptford, 1497 by Sean Mac Mathua
The Cornish: A Neglected Nation? by Dr Mark Stoyle in BBC
Life in Tudor Times by Jorge H. Castelli

kenow旗というコーンウォールの旗