「prudent, liberal, affable and astute; associates with everybody, has very great experience in political government, discusses the affairs of the world admirably, aspires to greater elevation,
and bears ill-will to foreigners... small and spare in person, his hair is black...'
「慎重にしてリベラル、誰にでも愛想が良くて、抜け目なく、政治の場において多大なる経験を持ち合わせ
国際情勢を見事にこなし、大いなる出世を夢見る。余所者に対しても差別意識がある。
小柄にして貧弱な体、そして髪は黒い。」
(1531年、ベネチア大使ルドヴィコ・ファリエリが3代目ノーフォーク公について語った言葉/著者訳)
トーマスは祖父が戦死し、父が捕虜としてロンドン塔に幽閉されていた時、まだ12歳だった。
父のサリー伯が対スコットランド戦へ従軍している間、人質として宮中に止め置かれていた。
やがて22歳になった時、不釣り合いなほど高貴な女を妻に迎えた。
その名をアン・プランタジュネット。ヨーク王朝エドワード4世の第2王女である。
姉はヘンリー7世の王妃エリザベス・オブ・ヨークだった。
1495年2月4日、トーマスとアンはウェストミンスター寺院で式をあげた。
ヘンリー7世は「自分の家族以外の王族を根絶やしにした」と言われるほど、前王朝の血筋を敵視していた。当然ながら妻と同じく王位継承権を持つアンを、快く思っていなかったはずである。
かといって結婚させないわけにもいかず、トーマスを選んだのではなかろうか。
なぜなら、トーマスは無位無冠、無一文の若造だったからだ。
ノーフォーク公爵領は奪われ、爵位はかろうじて父がサリー伯の地位を取り戻したばかり。
トーマス自身は、何も持っていなかった。
見るに見かねて、エリザベス王妃が週に20シリングを出して、妹夫婦のために、2人の侍女と3人の従僕を雇ったという。
2人の間に生まれた子供達は次々と亡くなり、アン自身もまた37歳で亡くなった。
トーマスはしみじみと自分の無力さを、敗者の一族の悲哀を感じたに違いない。
父は着々と地位を固めていったが、トーマス自身は何もできず、国王に無視されたままだった。
ヘンリー7世が亡くなって、ヘンリー8世に代替わりした時、トーマスはわずかに希望を見いだ。
即位を祝うトーナメントで、彼は兄弟のエドワードやエドモンドとともにヘンリー8世の試合相手を務め、褒美を与えられている。
だが、本格的な出世は、1514年9月9日/フロッドンにおける歴史的勝利に立ち会って以降である。
トーマスは持病の通風で歩けない父に付き添い、スコットランド王ジェームス4世を戦死させた。
その功績で、父はノーフォーク公の名を取り戻し、トーマスは父が持っていたサリー伯爵の地位を引き継いだ。
1524年5月父が亡くなると、ようやくトーマスはノーフォーク公となった。
その頃、姉のエリザベスとトーマス・ブーリンの間に生まれた娘・アンが、ヘンリー8世を魅了し、結婚さえ考えるようになっていた。ヘンリー8世ののぼせぶりを見て、トーマスは狂喜した。
(一族の中から王妃が出るかもしれない!。)
彼は臆面もなくヘンリー8世と王妃キャサリンとの離婚を支持し、媚びへつらった。
離婚交渉に手間取るウルジー枢機卿をアンとともに失脚へと追い込んだ。
結果として、1533年5月、アンは妊娠して王妃の座を獲得した。
(もしアンが男の子を産めば、我が一族は未来の国王の外戚になるのだ。)
トーマスは期待に胸膨らませた。・・・が、生まれたのは娘(後のエリザベス1世)だった。
アン自身も国王に嫌われかかっていた。焦ったブーリン一族は暴走した。
アンとその兄は前王妃や王女の暗殺を計画し、仲間となりそうな男達を周囲に集めた。
ヘンリー8世は激怒し、アン兄弟を処刑した。ショックからか、義弟トーマス・ブーリンも姉エリザベスも相次いで亡くなった。トーマスの野心も潰えてしまった。
1537年10月15日、トーマスは弟のウィリアムとともに、ヘンリー8世王子エドワードの洗礼式に参列し、クランマー大主教、チャールス・ブランドン(初代サフォーク公)と並んで名付け親を務めた。
列席者には、周囲の嘲笑の視線を浴びつつ、健気に儀式をこなす義弟トーマス・ブーリンの姿もあった。
義弟が晴れがましい席に出席するのを見たのは、これが最後だった。
トーマスは、改めて敗者の悲哀を噛みしめた。
1540年、ふたたびチャンスが巡ってきた。弟エドマンドの娘・キャサリン・ハワードがヘンリー8世の目にとまり、その年の7月28日、5番目の王妃となったのである。
しかし1541年11月、彼女もまた姦通の嫌疑がかけられて逮捕され、翌年2月13日、ロンドン塔で処刑された。
せっかくのチャンスを二度までも失ったトーマスだったが、不運はこれだけでは終わらなかった。
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
サウスヨークシャーRotherham公式サイト
Whos Who in Tudor England (Whos Who in British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社
女王エリザベス(上) ヒバート 原書房