家系図

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「... at Windsor, where I, in lust and joy, with a kings son, my childish years did pass...」
(ウィンザー城で、王の息子とともに、私の子供時代は過ぎていった。切なる願いと喜びのうちに。
 ヘンリー・ハワード著/著者訳)

 ヘンリーは3代目ノーフォーク公トーマス・ハワードの子である。
 ある日、彼は一族の城フラミンガム城にある納骨堂で、1つの墓を見つめていた。
 墓碑銘は「アン・プランタジュネット 第3代ノーフォーク公夫人」エドワード4世の王女であり、父の最初の妻だった。父が無一文の時代に結婚し、心痛と病苦のうちに37歳で亡くなったという。
 ヘンリー自身は3代目ノーフォーク公トーマス・ハワードと後妻の間に生まれた子だった。
 だが、もし先妻の子として生まれていたら・・・・ハワード家自身、遠くエドワード1世王の血を引いて
いる・・・・彼にも王位継承権があったはずだった。
(力のない王位継承権など、何になるのだろう。)
ヘンリーはそう思って、惨めに終わった王女の人生をふり返った。

 1532年、ヘンリーは12歳で、国王の庶子・リッチモンド公ヘンリー・フィッツロイの遊び相手として、ウィンザー城に連れてこられた。当時王の寵愛を一身に集めていたアン・ブーリンは、従兄弟にあたるヘンリーとメアリー王女(後のメアリー1世)との縁談を持ちかけた。
 やがてその話は消え、1530年10月、オックスフォード伯の令嬢フランシスとの間で婚約が整った。
 リッチモンド公もまた、ヘンリーの従姉妹メアリー・ハワードと婚約した。
 サリー伯ヘンリー13歳、リッチモンド公11歳だった。

 やがて短い夏が過ぎるように、2人はウィンザー城を去った。
 ヘンリー8世王とフランス王との会見に、アン・ブーリンが、一族郎党とともに出席したからである。
 その時アンは、(まるでもう王妃になったかの如く)キャサリン王妃の宝石を取り上げて、身につけていた。
 リッチモンド公はフランス宮廷に留まり、1533年になって帰国し、婚約者のメアリー・ハワードと結婚した。 14歳同志のカップルだった。
 2歳年上だったヘンリー・ハワードが婚約者と結婚したのは、1535年になってからだった。

 1536年、アン・ブーリンはメアリー王女とリッチモンド公の暗殺を企てていたが失敗し、姦通と反逆罪で裁判にかけられた。
 父の第3代ノーフォーク公トーマスが裁判長を務めた。
 ヘンリーは従兄弟のアンが、リッチモンド公の暗殺を企てたと知って驚愕した。
 公はフランスで、アンの兄と会って以来、体調を崩していた・・・・・・。
 同年5月19日、アンが反逆罪で処刑された。
 その2ヶ月後、リッチモンド公が、17歳の若さで亡くなった。
(なぜこんなことに・・・)
 親友だったリッチモンド公の棺の前で、ヘンリーは頭を垂れた。

 彼は1537年10月、恩寵の巡礼の乱が起きた時、関与の疑いを受けた。
 新たに王妃となったジェーン・シーモアの一族にも、ヘンリーは敵意を隠さなかった。
 同年、フラミンガム城に蟄居を命ぜられた。その間、ヴェルギリウスの叙事詩「アエネーイス」の翻訳を手がけた。彼はblank verseの文体に惹かれた。韻を踏むという形式に拘らず、自由にリズミカルに広がっていく詩の世界を。

 彼の熱情は文学だけには留まらなかった。
 1543年2日2日、ヘンリーは悪友トーマス・ワイアットとともにロンドンの街を暴走して、ガラス窓を壊すなどの暴力を働き、復活祭中の四旬節にわざとその期間禁止されている肉を喰らい、ロンドン塔に投獄された。
 半年後釈放されると、フランドル戦線に派遣され、ブローニュ攻防戦に加わった。
 3年後の1546年3月、ようやく帰国が許された。
 帰ってきた彼が見たものは、シーモア家の跋扈する宮廷だった。

(この成り上がり者!。一族の女が王子を産んだからといって、つけ上がりおって。)
 ヘンリーの中で、憤懣が膨れあがっていった。父親とは違い、苦労を知らないだけに、その気持ちには世知長けた計算のない純粋なものだった。
 彼は17歳で未亡人となった元リッチモンド公妃メアリー・ハワードが、トーマス・シーモアに誘惑され、結婚したいと言っているのを聞いて、冷水を浴びせかけるような手紙を送った

「 he wrote to her insinuating that this was a step towards becoming the mistress of Henry VIII.」
 しょせんそんな結婚は、今の王妃が晴れて未亡人になって、自由の身になるまでの【つなぎ】に過ぎない
 と書いて送った。(Tudor Plaseの解説より抜粋/訳著者)」
 確かにトーマス・シーモアは、ヘンリー8世最後の王妃となるキャサリン・パーの恋人であり、国王が亡く
なったら結婚しよう、と誓い合った仲であることは有名だった。
 後に実際キャサリンと結婚すると、養女にしたエリザベス王女(後のエリザベス1世)に手を出すような
軽薄な男であることも知られていた。しかし、それを真っ正面から指摘されて、メアリーは激しく兄を憎む
ようになる。そしてヘンリーはブレッジ卿の前で、言ってはならない言葉を言ってしまう。
「もし国王が死んだら、シーモア家ではなく、我が父ノーフォーク公と私こそが、皇太子の摂政として補佐するに相応しいのだ。」
 その頃ヘンリー8世はどうしようもなく肥え太り、足には重い潰瘍ができ、糖尿病やら性病やらの持病に苦しみ、余命が長くないことは明らかだった。
 遠からず幼いわが子を残して逝くことを自覚しているだけに、この言葉はヘンリー8世にとって死の宣告に相応しかった。
「ノーフォーク公親子は、朕の命を狙っておる!、即刻捕らえよ!。」

 1546年12月12日、ノーフォーク公とサリー伯ヘンリーの2人は、ロンドン塔に幽閉された、
 1ヶ月もたたない翌年1月3日、裁判で父子に反逆罪により死刑判決が下った。
 裁判の席上では、妹のメアリーによるでっち上げの告発状まで読み上げられたという。
 サリー伯ヘンリーは、父より10日早い1月19日、処刑された。

【美しいジェラルディン(Fair Geraldine)】と10歳の美少女を讃え、「歌・・・彼と踊ることを拒んだ
 良き恋敵の妻・レディ・ハットフォードに捧げる(Song... to a lady that refused to dance with him, is addressed to Lady Hertford, wife of his bitter enemy)】など、美しい詩を生み出した詩人は、30歳の若さで、タワー・グリーンに消えた。

 妻・フランシスとの間には5人の子供達が残された。
 長男トーマスは、祖父の跡を継いでノーフォーク公となる。

 

             
                     

   参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
Tudor England (Whos Who in British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh
イギリス文学小辞典 北星堂書店
シェークスピアの女たち 青山誠子 研究社選書