17世紀ヨーロッパは、ルイ太陽王を代表とする絶対王制が確立する時期です。
エリザベス女王亡き後英国を継いだジェームス1世は、まず前王朝で破綻してしまった国家財政の建て直しをせざるをえませんでした。
実は国庫はジェームスが即位する10年以上前、1590年の段階で、アイルランドの反乱鎮圧にかかった費用がかさみ、5万ポンドにまで減っていたのです。女王は仕方なく王領を切り売りすることで当座をしのいできました。
ジェームス1世は新たな財政源として、特許独占状を乱発しました。
なぜなら特許独占状をもらった個人なり団体は、その産業を独占できるかわりに国王に手数料を支払わねばならなかったからです。 エリザベス女王は同じ事をしようとして、議会の反対にあい、撤回しています。
ジェームスは、何としても成功させたいと考えました。
そのためには、まずフランスのように国王の権限を強める必要がありました。
しかし英国においては、絶対王制の時期は、議会が権限を強める時期とも重なりました。
エリザベス女王は44年の治世のうちで、たった10回しか議会を開かず、しかも一回を除いて穏やかなものでした。
しかしジェームスの開いた議会は、最初から大荒れでした。
その後、祖父(ジェームス1世)息子(チャールス1世)孫(ジェームス2世)の三代に渡って、議会と絶対王制とは熾烈な戦いを繰り広げます。詳しい内容は、「英国2つの革命」にありますので、ここでは省きます。
この時代、長きに渡って続いた封建制度がついに終わります。
それまで貴族は騎士の義務として、国王から土地を借りるかわりに上納金を納めるか、軍役についたのですが、それが撤廃されました。
また、臣下が未成年の時には、国王が後見人となり、後見料を取っていましたが、こちらも廃止になります。
つまり、貴族は国王から自由になったのです。しか し領主制度は残っていて、農民は小作農のままでした。
貴族はその土地の一国一城の主になったわけで、国王に対して義務が無くなったのです。そうした『小さ な王様』の寄せ集めである議会は、必然的に国王と対立せざるをえなくなりました。
ジェームスの跡継ぎチャールス1世は、特許独占に加えて、新たな税制度を導入したため議会の反感はさらに強くなり、ついには内乱に突入します。
チャールス1世は処刑され、ここで英国史上空前絶後の『共和制度』が生まれました。
フランス革命とは異なり、英国の共和制度は内部分裂のために、15年で終わります。
国民は過激な清教徒信者が牛耳る共和制度よりも、国王が象徴として君臨する立憲君主制度を支持したためです。
殺されたチャールス1世の長男チャールス2世は議会に逆らうことなく、酒と女にうつつをぬかして、平穏に一生を終えました。 しかし次男ジェームス2世は、父祖の志忘れがたく、再び議会と対立し、敗れて国外追放の憂き目にあいます。
強大化した議会は、扱いにくいジェームスのかわりに、ジェームスの娘のメアリーを嫁ぎ先だったオランダから呼び戻し、夫のウィリアム3世とともに国王も推挙しました。
これが『名誉革命』です。
英国国内で王室の男系が戦いで全滅していくのに対して、海外に散った女系の王室は、やがて英国にもどり、新しい王朝を花咲かせることになります。
ジェームス1世の長女エリザベスは、ドイツのファルツ選帝候フリードリッヒに嫁ぎます。
この王女の孫に当たるゲオルグが、スチュアート王朝断絶の後、英国に来てジョージ1世として即位。
ハノーバー王朝の始まりです。ハノーバー王朝は現王室の直系の先祖にあたります。
ウインザーと名前を変えたのは、第二次大戦中ドイツと戦うにあたり、ドイツ名ではまずかろうということで、居城であるウインザーからつけた新名称なのです。