メアリー・シドニー/ヒリアード作/

ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵

メアリー・シドニー
(1560~1621)

      
シドニー家の家系図

時刻を告げる時計の音を、指折り数えて
かがやく昼が恐ろしい夜の闇に沈むのを 見るとき
スミレの花の盛りのときが 過ぎゆき
漆黒の髪も白銀の色にかわるのを 見るとき
(シェークスピア/ソネット 第12歌)

 有名なシェークスピア作のソネットは、今まで誰に捧げた詩であるか不明であったが、最近では第4代ペンブルック伯爵、フィリップ・ハーバードに捧げられたとの説が有力である。
 フィリップ・ハーバード自身は名門産まれという以外に、これといった人物ではないが、その母/メアリー・シドニーは特筆すべき女性であった。

 メアリーの父は1565年から1571年まで、アイルランド副総督を務めた男であった。
 後のティローン伯の乱の首謀者ヒュー・オニールを、英国に連れてきたのも彼である。
 メアリーは父がまだケント州にいた頃、その地で誕生した。1561年10月27日、北国英国では、すでに真冬に近い季節である。
 母はジェーン・グレイを王位につけて後に反逆罪で処刑されたノーサンバーランド公の娘だった。
 長男フィリップ、長女マーガレット、次女エリザベスに続く4人目の子供であったが、フィリップとメアリー以外の子供達は幼くして亡くなっているので、実質的には2人兄妹といってもいい。

 メアリーはこの兄を心から敬愛していた。たった1人の兄だっただけではない。
 フィリップは長身に英国的な面長な美貌の上、軍才と詩才に恵まれるという類い希な男であった。
 しかし彼は、オランダにおけるスペイン軍との戦いの最中、足に銃撃を受けた。
 出血は激しく重傷であったが、フィリップは自分の水を傍らにいた別の負傷兵に与えてしまった。
「私より君の方が必要としている・・・・」
 1586年、10月17日、フィリップは死んだ。

「お兄様・・・。」
 メアリー、時に26才、生まれて初めて遭遇した激しい衝撃であった。
 女王エリザベスも深く悲しみ、全宮廷が喪に服したという。
 フィリップは国葬にされた、最初の英国人でもあった。

 それほどまでに惜しまれた兄の遺志を、メアリーは何とかして生かしたかった。
 そして兄の遺稿を手にした。書きかけの詩集、ラテン語の聖書・・・・
「お兄様のことを思うと不思議と心が熱く燃え上がり、かき乱される・・(メアリーの言葉)」

 こうしてメアリーの英国ルネサンスにおける、輝かしい文学生活が始まったのである。


 メアリーはその年になるまで、悲しみというものを、ほとんど知らなかった。
 父は国王の側近、母は女王の愛人の姉。
 しかもメアリーは16才の時、英国有数の富豪・・第3代ペンブルック伯ヘンリー・ハーバードの後妻に迎えられた。27才も年上の夫は、この幼妻を溺愛した。3年後には、待望の男の子ウィリアムが誕生した。
 ペンブルック伯にとっては、初めての子供であった。狂喜乱舞した伯爵は、近くの教会に記念碑を建てたほどだった。 その後も次々と子供に恵まれ、4人の子の母となった。
 夫の愛と母になる喜びに包まれたメアリーを最初に襲った不幸とは、兄フィリップの死であった。
 もちろん、兄の亡くなる前々年に娘を亡くしたことも不幸には違いない
 が、兄フィリップは、他では埋めようのない巨大な損失だった。
 しかも兄の後を追うようにして、同じ年、父と母が相次いで亡くなった。
 まるで突然死神が、今までの幸福のツケを取りに来たかのように、瞬く間にメアリーから肉親を奪っていった。
 その悲しみを癒すかのように、メアリーはペンを取る。

 1611年までに、旧約聖書の「詩編」107編を翻訳し、兄が残した43編と合わせて完訳した。
 実に20年もの歳月が流れていた。
 その他1593年「アルカディア」1598年「アストロフェルとステラ」20世紀になるまで出版されることのなかったペトラルカ「死の勝利」の翻訳、「生と死の会話」「アンソニーの悲劇」等々・・・
 自ら翻訳する傍ら、文学者達のパトロンとしても活躍した。
 最初にあげたシェークスピアがウィリアム・ハーバードに詩を捧げたのも、母メアリーの縁であった。
 もっとも、一説によると、メアリーより2才年下のシェークスピアは実はメアリーの愛人であり、ウィリアムは2人の間に生まれた子である、という。

 1621年9月25日、メアリーは天然痘によって死去した。
 セントポール大聖堂では、彼女の功績を讃えて盛大に松明が焚かれたという。

過ぎ去った昔の日々の 追憶の数々を
甘い静かな思い出の法廷に呼び出すとき
かつて私が求めた多くのものが 今はないことを悲しみ
高価な時の荒廃に 昔の嘆きをまた新たに嘆く
 (シェークスピア/ソネット 第30番)

     
 参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
シェークスピア/ソネット集  中西信太郎訳
ルネサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社出版