フランス革命小話「言葉は大切」
谷川稔氏の研究によれば、フランス革命当時、グレゴワールという人物が、全国の言葉調査を行った。
それによると、地方では1200万人がフランス語を話さず、正確にフランス語を話せる人間は300万人程度であったという。
18世紀末のフランス人口が2700万~2800万人なので、約9人に1人しかフランス語を話さなかったことになる。
フランス国民の半数弱が、別の言葉を話していた。
人間とは不思議なもので、外見が同じ民族でなくても同じ言葉を話していると親しみがわいてくる。
逆に、同国人でも外国語を母国語に話していると、感覚的に距離をおいてしまう。
北部国境地帯ではゲルマン系を源とするアルザス語、フランドル地方のフラマン語、南フランスではケルト人の流れをくむブルトン語、プロバンス語、ランド ラック語、ピレネー南端のカタロニア語、コルシカのイタリア語、インド・ヨーロッパ語族には属さない特殊なバスク語などが話されていた。
北部へいけばドイツ語系やフランドルの言葉、ピレネー山脈近くではスペインの影響を受けているのである。
そんな地方の多くの人間にしてみれば、フランス革命政治家は、良くも悪くも「聞き慣れない言葉を話す、日常生活をひっくり返そうとする」人間だった。
また、ルイ15世の時代まで遡るが、フランス語でも王侯貴族は「宮廷語」という特殊な言葉を使い慣れていて、ほとんど外国語を解さなかった。
ルイ15世が「英語新聞を読めるものはおらんか」と側近に問うたところ、読めるものは1人もおらず、ベルサイユを走り回って見つけたのが、「ノルマンディー出身の衛兵」だった。
ノルマンディーはドーバーを挟んで英国と交流があるため、英語を話せる者が多かったのである。
ちなみに、宮廷語は一般的フランス語と単語も文法も違っていた。「芝居を見に【コメディ・フランセーズ】に行った」とはいわず、「オー・フランセ」と言わねばならなかった、という。
言葉の違いは革命の最中でさえ、交流を難しくさせ、疑心暗鬼や反感を招いた。
こうした意思の疎通の悪さから、地方語・外国語そのものが「反革命」のレッテルを貼られた。
国民公会(革命政府)は、「革命は古い迷信や習慣を破壊したのだから、みんな共通フランス語を話して言葉も革命するんだ!」と言い出した。
9 4年1月、恐怖政治の血の粛清も峠にさしかかった頃。
政治家の1人バレールはこう演説していた。
「迷信はブルトン語を話す。亡命者と共和国への憎悪はドイツ語を話す。反革命はイタリア語、
狂信はバスク語を話す。これら災いをもたらす誤謬(ごびゅう)の道具を打ち砕こうではないか」
こうした中央集権的な思想は地方の伝統やマイノリティへの迫害につながっていく。
「単一にして不可分の共和国」という革命の合い言葉は、統合の強化であるとともに、そこから逸脱する
人々の切り捨てという、排除の強化でもあった。