16世紀特有の、男性のシンボルを強調する「ブラゲッド」は、中世ドイツから生まれたファッションだった。
ドイツでは「ラッツ」フランスでは「ブラゲッド」、英国では「コッドピース」の名で呼ばれた。
その前の時代、15世紀半ばではすでに、男性は足に密着するタイツにウエストまでしかない短い上着を着ることで、局所を強調する傾向にあった。
1444年のチューリング年代記によれば、「男達もこの時代短い上着をつけていたから、陰部は丸見えだった」あまりにもモッコリしていたために、女性とダンスをしている時など、相手は嫌でもその部分に目がいってしまったという。
やがて自然体でモッコリさせるだけでは飽き足らなくなり、同時に薄いタイツだけでは陰部を保護しきれなくなると、男達は作り物の陰部「ブラゲッド」を下げるようになった。
目立たせるために、服やタイツと違う色の布で作ったブラゲッドに、色とりどりのリボンやレースを飾る方法もあれば、形は実物に似せているが詰め物をして、相当大きく見せる方法もあった。
エッジスハイム年代記によれば、タイツはお尻に食い込んで割れ目がはっきりと見え、前に回ればブラゲッドが「鋭く前方に突き出ていて、テーブルの上にのっかったほど」であった。
「そういう姿で人々は皇帝、国王、領主、紳士、淑女の前に行った」
一方、女性の方も負けずに胸を剥き出しにしていたのである。
政府は女性の胸丸出しもブラゲッドも取り締まろうとやっきになっていた。
ニュールンベルク市議会の布告によれば
「卑しくも当市の市民たる者は、ズボンの袋を隠さず剥き出しにして、大っぴらにこれ見よがしに下げてはならない。陰部とズボンの袋を隠して、剥き出しにならないように作らせて、身につけなければならない。」
ベルン市では、男が陰部もブラゲッドも露出してはいけない、という法律を、1476年から1487の11年間に6回も改正したが、流行熱が冷めるまで、いっこうに効き目がなかった。
16世紀に入ると、貴族や国王まで、当たり前のものとしてブラゲッドをつけるようになる。
シェークスピアの「ヴェローナの2紳士」は、ヴェローナに住む2人の青年がミラノの大公に仕えるうちに、2人一緒に大公の姫君に一目惚れして、置き去りにされた婚約者が、男装をして追いかけてくるという、ドタバタ劇である。
その第二幕、婚約者ジュリアが男装をしようとするシーンで、こんな会話がある。
英国王ヘンリー8世も、流行に合わせてブラゲッドをつけている。
膝丈の上着の、下の方から袋というより、折りたたんだ帯に近い形で覗かせている。
しかし色はそれほどハデなものではなく、白っぽい上着の色とさほど差違はない。
(下の画像/ブラゲッドをつけたヘンリー8世/ホルバイン作/1536年)
一方1532年頃に書かれたカール5世の肖像画は、密着した短パンとタイツの上に、カバーをかぶせたようなブラケットがはっきりと見える。
ブラゲッドをつけたカール5世(下の画像)ティツィアーノ作/プラド美術館蔵/1532-1533
一方、このページトップにある1551年作イタリアのロドヴィコ・カッポーニの肖像画では、真っ黒な上着の間から、白いブラゲットが付きだして見えている。
1550年代に描かれたフィレンツェの肖像画では、なんと小さな子供までつけていたことがわかる。
いかにこの流行がヨーロッパを席巻したかよくわかるが、何とも奇妙な光景である
参考資料
風俗の歴史 フックス著 光文社
Tudor & Elizabeth portraits