生まれたままの姿、本当の自分を人前に晒すこと・・・それは人の心の奥底に眠る妖しい危険な願望かもしれない。
 かつて日本でも、裸体を非礼とする儒教が入る前の昔、裸体は神聖なものだった。
 古事記には、巨大な鼻を持つ異形の神・サルタヒコが現れた時、その邪気を避けるために、女神ウズメノミコトは全裸で迎えたという。

 ヨーロッパではどうかといえば、ギリシャの「完全なる肉体を持つ者は完全なる魂を持つ」という思想に基づいて、美女の裸体は至高の存在だった。
 1461年、ルイ11世(シャルル7世の皇太子)がパリを訪問した時、ボンコーの噴水の傍らにひしめく群衆の中に、人魚を模した、ほぼ全裸の3人の美女が混じっていて、誰もがそのスタイルの美しさに感嘆した、という。

 数年後の1468年、ブルゴーニュ公国のシャルル剛胆公がリル市を訪問した時には、3人の美女が全裸で現れ、パリスの審判(注1を模して、誰が一番美しいか競った。

 一方英国でも、女王エリザベス1世は行幸先で、ニンフや花の女神を真似た、ほとんど全裸の美女の出迎えを受けた。
 全裸の歓迎は、ただ裸ではつまらない、と思うと、わざとすけすけのベール一枚だけをまとって登場することもあった。
 現在も残る、アンリ2世の側室ディアンヌ・ド・ポワチエの肖像と伝えられる「サビーナ・ポッパエアの肖像(作/フォンテーヌブロー派ジュネーブの美術歴史博物館所蔵/)下の画像」は、頭からすっぽりベールをかぶりながら、全て透けて見えている。

 16世紀、胸を露出して歩くことを「食卓を開く」と称した。
 最初は売春婦だけの流行だったのに、なぜか身分を問わず、全ての女性に流行った。
 顔はマスクやベールで隠しても、胸だけは丸出しだった。
 アンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディチは、乳首をダイヤを散りばめたリングや金のキャップで飾り、金の鎖で2つの乳房を囲むデザインを発明した。

 裸が大嫌いな儒教世界/東北アジアでも、例外的に乳房を出して歩くケースがあった。
 朝鮮では、跡継ぎとなる息子を生んだ女性だけが、チョゴリの胸の部分を切って、乳房を見せる栄誉に恵まれた。
 現在でも、誇らしげに乳房を露出している妻達の記念写真が沢山残っている。
(下の写真は20世紀初頭の韓国女性の写真/サイト「日韓併合前後 朝鮮半島写真館」より)

 さて、いくら流行とはいっても、胸を露出して公道を歩いて教会まで来られてはかなわない。
 僧侶が大声で不道徳だ、と説教しても無駄だったので、ついに法的に取り締まることとなった。
 17世紀のヴェネチアでは、こんな布告がなされている。
「公的に許された売春婦以外は、何人たりといえども、胸を裸にして外出したり、教会に参詣してはならない。これに反した場合、夫は名誉を剥奪され、罰金を納めなければならない。」
 法律で取り締まるということは、それだけ数が多かった事実を物語る。
 もっとも、最初から露出したわけではなく、襟ぐりを広く開けていって、コルセットとベルトで下から胸を締めて押し上げた結果、ポロリと乳房が露出してしまったのが、案外うけたのがきっかけであったのだろう。
 イエスにお乳を与える聖母子像は、中世からルネサンスまで、好まれたテーマであった。
 乳房は卑猥さではなく、母性のシンボルであり、ニュールンベルクの「青春の泉」のように、お乳の吹き出す女性像は噴水のテーマによく使われた。

 この胸ポロリで有名な肖像画が、アントワープ美術館蔵「ムーランの聖母子」だろう。
 モデルはシャルル7世の側室で、「こんな美人見たことがない」と絶賛されたアニュス・ソレル。
 真っ赤な天使という異様な背景に、スキンヘッズの美女が豪華な冠をかぶり、無表情に膝の上の幼児を見つめている。乳房はほとんど脇の下から生えている(?)と思われるほど、非現実的なまでに上部にあるのは、それがこの時代の理想的な乳房の形だったからである。

「卵より立派な乳房よ、薔薇も顔負けの乳房よ、おまえを見る時は、手でおまえに触れ、おまえをつかまえたいという、たまらない気持ちを誰にでもおこさす」(クレマン・マロが乳房に捧げた詩「全集」)
       

                 

        参考資料
風俗の歴史 フックス著 光文社 
歴史の中の女たち 高階秀爾著 文芸春秋社