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RICHMOND PALACEリッチモンド宮殿

リッチモンド宮殿のデッサン/アンソニー・ヴァン・ウィンガード

1555年/アッシュモレン美術館蔵

                     
 ロンドンと、ハンプトン・コートとの間の中間地点、テムズ川添いに立つリッチモンドの町。現在ではキュー・ガーデンやリッチモンド公園などで知られているが、かつては王室の狩り場であり、また壮麗な宮殿が存在していた。

 もともと「Richmond」とはヨーク州の地名であった。
 かつては「Sheenシーン」と呼ばれる土地だった。古代ブリトン語で「美景」という意味である。12世紀の昔から王室の宮殿があったのだが、1377年、王妃を亡くしたリチャード2世は、妻との美しい思い出に耐えきれず、宮殿の取り壊しを命じた。

 その地に再び宮殿が完成したのは、15世紀ヨーク王朝に入ってからだった。
 シーンが、リッチモンドに改名されたのは、さらに時代が下り、15世紀末、チューダー王朝の時代である。開祖ヘンリー7世は、即位する以前リッチモンド伯爵であったため、それにちなんでリッチモンド宮殿と命名された。
 ヘンリー7世は宮殿の中ではリッチモンドが最も気に入っていたという。

 1499年(98年との説もあり)12月21日、国王一家がクリスマスを過ごしていた時、宮殿の一角から出火し、全焼してしまった。
 ヘンリー7世はただちに巨費を投じて、再建を命じた。
 新しい宮殿はレンガ造り、屋根は鉛板で葺かれて銀色に輝き、装飾窓が無数に立ち並んでいた。丸屋根の上には金銀の風見鶏がクルクル回っていた。

 人々はその宮殿を「水晶の宮」と呼んだ。

 しかし次代のヘンリー8世は、1514年、上流にあるハンプトンに建造された。
 ウルジー枢機卿の館が気に入り、1525年「献上」という形で手に入れると、そちらをメインに生活するようになった。

 ヘンリー8世の長女のメアリー1世は、1554年7月スペインのフェリペ(後のフェリペ2世)との新婚生活をここで過ごしている。

 次のエリザベス1世は、国民の人気取りと一カ所でじっとしているのが嫌いな性分から、夏の地方巡行の時期を除くシーズン中、1000人もの臣下を引き連れて、各宮殿を巡回した。その中でもリッチモンドはお気に入りの宮殿だった。
というのも、ここには1597年、世界初の木製水洗トイレがエリザベス専用に設置されていたからであった。

 やがて17世紀に入り、宮殿もまた動乱に巻き込まれる。
 ピューリタン革命によって1649年チャールス1世王が処刑されると、広大な狩り場とともに、革命政府からロンドン市へと所有が移った。
 その時革命政府は、宮殿のほとんどを取り壊して、売れる物は売ってしまった。
 1660年、王制復古にともない、リッチモンドはチャールス2世の手に返還されたが、すでに往事の姿は失われていた。

 現在、ヘンリー7世の造営した宮殿の名残は、唯一赤レンガ造りの楼門だけである。
 このアーチの上部には、ヘンリー7世の紋章である「盾を支える赤いドラゴンとグレー・ハウンド」が飾られている。
           

参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tuder History Lara E. Eakins
女王エリザベス(上下)ヒバート 原書房
テムズ河 その歴史と文化 相原幸一 研究社    

(次は「ノンサッチ宮殿」)

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