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 幼女のミニアチュール/イサク・オリヴァー作1590年/V&A美術館蔵

 




 己の財産を自由に管理できるという事は、同時に人生もまた自分自身に決定権がある、という事実に他ならない。結婚相手の選択もまた、しかりである。
 かつてチューダー朝期の人間は政略結婚が多く、夫婦間はほとんど愛情がないかのように
言われてきたが、残された書簡集、1530年から1540年にかけて書かれたリール卿夫妻の手紙は、実に愛情に充ち満ちており、当時の夫婦があり方をよく物語っている。

「もしあなた(妻)がここにいてくれたなら、どんなに嬉しい事でしょう。愛する人」
「私(妻)は10時間おきに、あなた(夫)の側にいたい。」
(リール卿夫妻書簡集)

 もともと北欧系バイキングの系譜であるデーン人も、アングロ・サクソン族も、厳格なる
一夫一婦制であり、結婚相手選びに対しても当人同士の意思を最優先する風習があった。
 教会法(カノン・ロー)もまたその影響を受けていた。

 560年の法王クロサイル1世の勅令では、女性に対して意志に反した結婚の強制を禁止している。デーン王朝のクヌート王(1016年即位)の法令によれば、いかなる女性も愛してもいない男性との結婚を押しつけられることはなかった。
 1175年のウェストミンスター宗教会議の場でもまた、子供達が親の意思に束縛されず結婚相手を選ぶ自由を再確認されている。

 1272年、エドワード1世(1274年即位)の代に書かれた「過ちの対処法(著者・ロバート・マニング)」の中では、親が勝手に決めた幼児同志の結婚は、「とんでもない愚行」である、と非難されている。

 もちろん、これは社会的な慣習であって、各家庭の中では名家同志の縁談があったり、それを嫌がる子供達への押しつけや小言もあったに違いない。
 たとえば9日間の女王ジェーン・グレイの場合、ダッドリー家に嫁ぐ事を嫌がるジェーン
を、母のサフォーク公妃は「ひっぱたいて」従わせた、という。
 しかし万が一子供が法廷に立てば、社会や法は結婚の自由を支持したのである。

 同時代のフランスでは、すでに女の赤ん坊が産まれた時点から、将来の有望な結婚相手選びが始まっていた事が、1622年出版された「産婦のおしゃべり」という本の中にも現れている。フランスでは地域性が強いために地方によって若干状況が異なるものの、家父長制度が主流であった。従って結婚は父親が決定権を握っていた。

 フランスの娘は父の意向に従って結婚相手を決められ、時には持参金の節約のために強制的に修道院へ送られる事も珍しくなかった。大革命直前ですら、メルシェの「18世紀パリ生活誌」によると、「富裕階級の娘の自由恋愛や結婚は、親の監視の目が厳しいために
ありえなかった」という。

 ド・トクヴィル(19世紀初頭のフランスの歴史家)によると、「貴族主義的国家では、そこから抜け出すことも入っていく事も不可能であり、別の階級とは何ら連絡も」なかった。
 フランスでは結婚は同じ階級内に限られており、必然的に個人ではなく、親の意向が優先された。

 英国は階級社会だと考えられがちであり、実際貴族のいる社会ではあるにしても、階級は血筋によって固定されているものではなかった。
 貴族階級も豊かな中産階級もともに同じ職業につき、またトーマス・ブーリンのようにヨーマン(富裕農民)から成り上がり、爵位を持つ者も珍しくはなかった。
 フランスとは大いに異なり、「成り上がり」が普通の社会であった。
 庶民であっても貴族の家に婿入りしたり、最も貧しい階級の女性でも、主教の息子など、富裕階級に嫁ぐことが許されていた。

 フランスでは大革命後も貴族と市民との結婚は、まずありえなかったのに対して、チューダー王朝ですでに、市民と貴族の間で自由に結婚が行われていた。
 1570年から1599年にかけて、爵位を持つ貴族とその跡取り息子が貴族の女性から妻を迎える率は、3分の1に減っていた。1517年から1612年にかけて、リンカーンで行われた結婚式では、男性の3分の1、女性では5分の2の人々が、自分の属する階級以外の相手と結ばれていた。

「もし諸君らがカースト制度の思想を、その習俗、およびそれが人々の間に作り上げている 障壁が間違いなく破壊されているかどうか知りたいのなら、結婚を見よ。」
「英国はカースト制度が変化しなかった国なのではなく、効果的に破壊された唯一の国であった」
(ド・トクヴィル)

 他のヨーロッパ諸国が13世紀以降世襲貴族制度が確立していったのに対して、英国では貴族の爵位は法律的なものではなく「財務制度に変質してしまった(ド・トクヴィル)」
 そのため、身分違いの結婚を阻止する法律が全くなかった。もし訴えるとすれば名誉毀損
や、高貴な女性を「犯した」罪を問う事も可能であったが、結婚を妨げる法ではなかった。

 もともとこうした英国のコモン・ローを基礎にした慣習は、11世紀頃までヨーロッパ全体に点在していた。しかし12世紀から16世紀にかけて、そうした古来からのゲルマン的慣習法は駆逐され、成文法であるローマ法が取って代わっていった。

 しかし英国はローマ法を拒否した。コモン・ローの「私権(自分の財産を所有する権利)
保護」の概念は絶対的なものだった。(議会と法によって私権を剥奪されることは、ヘンリー8世王妃キャサリン・ハワードやソールズベリー伯爵夫人の例で見られるように、死刑を意味する場合があった。国家と法に逆らう大逆罪のような場合のみ、コモン・ローは適用されなかったのだ。)
 そこには他者の命や財産をも支配しようとする「家父長制度」が入り込む余地がなかった。

 1461年に書かれたフォーテスキュー卿の「英国の政治と法に関する学識に基づいた称賛」
によれば、すでにこの時代から、国王といえども法の下にある立憲君主制度が根付いていた。
 英国の王だけが強力な「国王軍」を持たず、中央集権的な官僚制度を持たなかった。
 いわば英国王は国民の「家父長」になれなかったのである。

 従って、女性や子供たちもまた、家の中で家父長による支配を逃れ、社会的な圧力を受けることなく、自由に結婚するチャンスが与えられたのである。
 自由な結婚と、早期の独立、財産の個人所有が16世紀の段階から「核家族」化を進めていた。その結果、1792年モンテスキューが訪英した時、「私はヨーロッパの他国とはほとんど共通点の無い国に来ている!」と言わしめたのであった。

フランスでもブルターニュ地方のように職人が多く、核家族化が進んでいた地方では、比較的女性の地位が高かったと言われている。


参考資料
再生産の歴史人類学 アラン・マクファーレン 勁草書房
中国列女伝 村松暎著、中公新書166 

        
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