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英国史の中の愛のかたち(1)子供の権利 
 

赤ちゃんのミニアチュール/イサク・オリヴァー/1590年/ハーム家蔵 
         

「人口と社会構造の歴史研究を目指すケンブリッジ・グループ社会科学研究委員会」
(The Social Science Research Council Cambridge Groupe for The History ofPopulation and Social Structure)によれば、教区登録簿に残された記録から、16世紀まで遡って出生力と死亡率とを計算することが可能だという。
 その調査によれば、一生独身のままでいる男女が減り始めたのは、18世紀初頭からであって16~17世紀において40歳代の独身者は男女ともに人口の22・9パーセントを占めていた。実に5人に1人以上が40代になっても結婚しなかった。

 人はなぜ結婚するのか?を考える時、最初に思いつくのは「子供を作るため」だろう。
 実際ユダヤでは「神の似姿である人間を減らしてしまうがゆえに、結婚を嫌がる者は斬首の刑にされた」という。

 中国でもイスラム諸国でもユダヤでも、子供は親にとって老後の最大の保証であり、また、家を豊かにするための貴重な労働力であった。それらの国々では、子供が増えれば増えるほど豊かになり、一族の結束が固くなった。
 一例として、中国列女伝の孝女の章を見ると、凄まじいまでに親に尽くす娘の話が出てくる。こうした「親孝行な子が増えれば」それだけ親は楽ができるシステムであった。

 ところが英国では、事情が違っていた。

 残された数々の声は、あまりにも現代的なので驚かされる。

「自分の妻に子供ができないことは、大いなる喜びである」
(サミュエル・ピープス1633~1703『日記』の作者)

「1人も子供を作っていないことを得意がっている、ある種の愚かしい裕福な欲深い人々は(子供がいないので)その分だけ金持ちだと思っている」
(フランシス・ベイコン)

 アイルランドやその他のカトリック国の農民が、もっぱら土地に依存して、生活必需品も食料も自前で調達しているのに対して、英国では農民や貧しい人々でさえ、商店から買った。子供が増えるということは、それだけ生活費として現金が必要とされる、という点で、現代人の親が抱えている問題と同じだった。

 子だくさんは、それだけで親の資産を食いつぶした。子供がいない事は、時として富の象徴でもあったという。金は常に親から子供に流れるのであって、その逆はほとんど無かった。親から子供への思いは、まったく見返りのない純然たる愛情だけ、としか言いようがなかった。その原因は、英国の特殊な環境にあった。

 中国など多産を奨励する国々では。親が子供を支配するシステムが存在した。
 家父長制度(Paterfamilias)は、親が子供の資産を吸い上げるものであり、子供の人生に対する決定権を握っていた。ヨーロッパにおいてもフランスなどでは、1960年代まで家父長制度が健在であり、家長に逆らう子供は法的に罰せられたのである。

 ヨーロッパ大陸を支配していた「古代ローマ法」においては、子供は父親に対して何ら権利を持たず、幾つになっても父が健在である限り、自分で持てる財産というものが何もなかった。この点で、子供は父親の「奴隷同然」であり、子供の働いて得た賃金すらも、父親が管理したのだった。

 一方英国を支配した「コモン・ロー」においては、親はいかなる年齢の子供に対しても財産に対する権利はなかった。コモン・ローでは、幼児でさえ、その父親が生きていてもなお、自分の財産に対しては所有権があり、その権利を守るためならば、法廷に立つ事ができた。

 16世紀の貴族トーマス・スミス卿は、
「われわれの子供達は、ローマ人の子供のように全能の親の手にはない・・・・
 子供が所有しているものは、不動産であれ動産であれ、父親がそれと無関係であれば、人に与えた り売ったりする事ができ、自分のために購入することもできる」
と書き残している。

 16世紀では、14歳を過ぎた少年、12歳を過ぎた少女は遺言を作成することができ、家財道具を処分することができた。しかもかれらが自分の財産を持っている場合には、父親の同意なしに処分することができたのだ。
 コモン・ローによれば、「女児は遺言を作成することができ、12歳になれば個人資産を処分することも可能になる。男児は17歳で、あるいは自己判断力がある、と証明されれば15歳で処分することができる」

 それだけ独立した権利を持っている子供達であれば、当然家から離れるのも異様に早かった。

 というより、親は少しでも家計を楽にするために、わが子を奉公(徒弟制度)や寄宿舎校などへ送り込んだ。

 それを法的に推進させたのが、女王エリザベスが1563年発令した「職人規制法Statutes of Apprentices」と1601年の「救貧法The Poor Act」であった。
 子供達はせいぜい7~9歳ぐらいまでしか親元におらず、それ以降は大人になるまで他人の家に預けられた。たとえどんな金持ちだろうとも事情は同じで、わが子を他人に預ける代わりに、他人の子を受け入れていた。

 1574年から1821年までの間、15歳から24歳までの人口の約60パーセントが使用人として働いていたという。こうして幼い頃から稼いだ賃金は微々たるものであっても自分のものであり、将来親方や主人から独立するための資金となったのである。

「娘たちは。彼女の父親によってではなく、彼女の保護者によって身を固めた。
 彼女たちはまた、このようなやり方によって新居を構え、自分の富を築くために汗水流して懸命に働 くのである。(1480年代の無名の旅行家の記録)」

 しかし親方は、技術を教えるかわりに微々たる賃金でこき使える子供達が結婚して独立していくのを、快くは思っていなかったようだ。
 思想家アダム・スミスの友人ヒュームは、次のように述べている。

「どの親方も自分のところで預かっている男性の使用人達が結婚するのを思いとどまらせ、女性の場合 は、いかなる場合でも認めようとしない」

 従って、使用人や徒弟の何分の1かは否応もなく独身を強いられるか、結婚できたとしても、20代後半、せいぜい独立できるだけの技術や資産を身につけてからだった。
 必然的に早婚は少なくならざるをえなかった。

 当然のことながら、結婚してからも親との同居はまず無かった。
 アールズ・コーンなる村では、1580年から1750年にかけて947組の結婚が行われたが、その教区で洗礼を受けた男、つまり地元出身者はわずか183人のみ、4分の3はヨソ者だった。

 女性の場合には、3分の2が別の場所から移ってきた人々だった。

1655年、ジョン・ギブソン卿は、こんな詩を書いた。
「母の乳房にむしゃぶりついて、
 ケンブリッジで生まれた身なれど
 よちよち歩きの頃はクレイクで過ごし、
 その後の少年時代はヨークでしつけられた。
 ロンドンには出たものの、ここでは奴隷のようにこき使われ
 いつしかここで妻子持ち」
 英国人が、いかに流動的であったか物語る詩であろう。
              
           参考資料
再生産の歴史人類学 アラン・マクファーレン 勁草書房
中国列女伝 村松暎著、中公新書166 

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