モルの伝記/「スリのモル~その真実の歴史~」①
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1604年、ロンドン、セントポール大聖堂の中央廊下。
 通称「ポール遊歩道」

 現在の大聖堂は、旧大聖堂が1666年のロンドン大火災で崩壊した後、再建されたものである。
 1604年はまだ、13世紀に建てられた壮麗なゴシック建築だった。
 上から見ると十字架形をしていて、南北間を大きな廊下が貫いていた。
 壁際や通路際にはぎっしり露店が並び、常に客や通行人でごった返していた。
 ちょっとしたショッピングモールのようなものである。
 馬もパンも酒もアクセサリーも売られていて、洗礼盤の上で、コインが投げつけるように取り交わされた。

「パイだよ、焼きたてのパイだよ!」
「旦那、オシャレなタイツはいらんかねー。」

 身なりのいい男が一人、お目当ての商品を探しながら歩いていた。買い物を済ませると、取り出した財布を大切そうに懐にしまっている。もたもたした動作から、男が田舎者だとわかる。おそらく「都会はスリが多い」と聞かされていたのだろう。
 が、時すでに遅し。スリは遠くから、財布の中身も位置も、把握していたのである。

「いよ、フィリップ!」
 誰かが名前を呼びながら、肩を叩いた。
 男は反射的にふり向いた。
「人違いだよ、俺はフィリップじゃない。」
「そうかい、失敬。後ろ姿がそっくりだったから。」
 相手はニヤニヤ笑い、手を挙げて詫びる仕草をしながら遠ざかっていった。
(ちぇっ。)
 男は顔をしかめた。髪を耳のあたりで切りそろえ、男物の上着(ダブレット)短パンにタイツというファッションに、一瞬若い男かと思ったら、声も顔も女ではないか。今流行の「男装娘」(Hic-Mulier)だった。
(どこの軽薄な馬鹿女だ。)

 上京してきたばかりの男は、見慣れないことも手伝って、内心強い嫌悪感を抱いた。
 ヨークシャーのど田舎で男装娘がいたら、犯罪者扱いに違いなかった。
 実際、先の女王陛下(エリザベス1世)の御代では「服装法」があり、階級によって使える布の量から色から材質から決められていたではないか?。
 それが今では、男の格好をした女やら、女っぽい格好をした男やらが、当たり前の顔をして出歩いている。
(これだから都会は・・・)
と、ロンドンをけなしながら、懐に手をやると・・・

(ない、財布がない!)
 財布があった位置には、斜めの切り込みがあり、中身はからっぽだった。
 切られているのは財布の真上だけで、下着もブラウスも肌も、まったく無傷だった。
(これがロンドンのスリか・・・・)
 男は唖然と上着の傷を見下ろした。
 もちろん、さっきの「男装娘」の姿はどこにもなかった。

 男装娘=モルは、人混みの中、仲間の元へ急いだ。
 途中、都会ッ子らしい女の集団とすれちがった。両側をボディーガードに守られ、これみよがしに胸の谷間を見せ、首筋を美しいラフで飾った女たちが、モルを横目で見て、鼻で笑っていた。
 モルもこっそり笑ってやった。
(へへんのへん、だ。笑いたければ笑えばいいさ。おまえらは、こんなに早く走れるか?全力で走ったら、スカートが足にからみついて転倒するのがオチさ。)

 歴史上、「一部の貴族の悪趣味として」男装や女装があったのは事実である。
 フランス王アンリ3世は女装を好んだというし、その妹マルゴ王女(アンリ4世最初の王妃)は男装の似合う凛々しい美女だった、という。
 しかしキリスト教社会において、貴族でも娼婦でもない女性たちの間で、いわばポリシーとして男装がはやったのは、16~17世紀の英国だけだろう。

 エリザベス女王自身は男装をしたわけではないが、独身女性が半世紀も国を統治した事実じたい、男装に匹敵するほどの異例であった。エリザベスは自分の存在の無秩序さ、異例さを十分自覚していて、なおさら秩序を強く望んだ。

 一目で身分の区別がつく「服装法」は、その典型であった。
 しかしエリザベスの持つ異例さが、女たちに従来の秩序を内側から突き崩す力を与えた。
 男装が社会現象になったのも、旧体制が破壊され、次なる時代が来ようとする先触れだった。

 賛否両論が起きた。
 批判したり、擁護するパンフレットが次々と売り出された。
「男女(Hic-Mulier)」「女男(Haec-Vir)」「マルド・サック(Muld-Sacke」である。
 Hic-MulierやHaec-Virは、これらの作者がラテン語から思いついた造語で、英語ではない。
 前者が「男装なんて不自然で恥ずかしい」と非難し、後者は「人間は誰でも自由に生きる権利がある」
と主張する。ちなみに三冊目のマルド・サックとは通常「冬のスパイス入りホットワイン」を指すが、どうしてこんな題名なのか、不明である。3冊とも1620年に出版されている。

 英国国教会の説教の中では、女の長い髪は男への服従と謙虚さのシンボルだった。
 そのロングヘアーをバッサリ切り落とすのだから、かなり反抗的だと見られても仕方なかった。
 1620年1月、時の国王ジェームス1世は激怒し、ロンドン中の聖職者に男装非難のキャンペーンを開させたことから、流行は下火になる。しかし、どれだけ非難されようと、男装のモルは健在だった。

 モルの本名はメアリー・フリスといい、1585年頃、ロンドンで生まれた。
 (「モル」は「メアリー」の男っぽい愛称)
 実家は、現在のセントポール寺院の北側、ロンドン博物館とバービカン美術館に挟まれた一角、オルダーズゲートで靴屋を営んでいた。きょうだいは沢山いたらしいが、生きて成長したのはメアリーだけだった。
 メアリーは子供の頃から少年の服を着て不良グループに混じった。
 なぜ男装をしたか、というと本人曰く、「自分には女として魅力がない。男のかっこうをして、男として尊敬され」たかったから、だという。
 メアリーはやがて、実力さえあれば性別は関係ない、裏社会に身を投じた。

 冒頭で書いたスリの1シーン、モルが一人で財布を盗んだことにしてあるが、実際は数人が手分けして計画的にやるのが普通だった。というのも、当時こうしたスリ&路上詐欺は「業者組合(ギルド)」を結成していて、役割分担がなされていたからだ。
 縄張りの管理、盗品の売買なども、ギルドが仕切っていたのである。
 スリたちは、ギルドのメンバーになることで上納金を支払うかわりに、安全な商売を保証されていた。

 ギルドはまた、裏で見込みのありそうな青少年向けに「泥棒学校」を経営していた。
 そこではギルド公認スリのための訓練と、テストが行われていた。

「天井から、2つの袋がつり下げられていた。1つは模造コインの入った小袋、
 もう1つは銀片の入った財布だった。両方とも、周囲には沢山の鈴がぶらさがっていた。
 鈴に触れずに模造コインを取り出せたら公認スリになれるし、財布から銀片を取り出せたら
 名スリと呼ばれた。(1585年W・フリートウッドの手紙より抜粋)」

 修行を重ねたモルは、地区ギルドの幹部になったらしい。スリの被害者が多くモルのところに問い合わせのために、訪れているからだ。時には、すられた財布や貴重品を有償で返したり、新入りのスリをどやしつけたりもした。

「いいかい、私がいろいろ世話になった義理のある騎士さんが、白鳥座で観劇中に、エンジェル金貨7枚入りの財布をすられたそうだ。あの地区ではあんたが一番のスリだろ?わかるだろ?償いしておきな!。(戯曲「The Roaring Girl」より抜粋)