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メアリー1世その②

 メアリーにとって不幸だったのは、両親の離婚問題だけではない。
 フランス皇太子との縁談も、神聖ローマ皇帝カール5世との縁談も、果ては遠縁にあたるソールズベリー伯爵夫人の子レジナルド・ポールとの縁談さえもぶち壊れた。
 その他にもポルトガル王子やフランスのオルレアン公が求婚してきたが、何一つまとまらなかった。
 ヘンリー8世は、メアリーの持参金を出し渋ったのみならず、メアリーが夫となる男とともに、英国王位を奪うのではないか、と懸念していたのである。
 後にメアリーは、義母のキャサリン・パーにむかって「While my father lives I shell beonly the Lady Mary, the most unhappy lady in Christendom(父が生きている間、私はキリスト教国でもっとも不幸な女・レディ・メアリーでいなければならないのです)」と漏らしている。

  1536年5月、アン・ブーリンが処刑されたことで、父と娘は表面的には和解した。
新王妃ジェーン・シーモアの勧めによって、ヘンリーはメアリーと再会した。
「Some of you were desirous that I should put this jewel to death.(何人かは、この宝石であるお前の死を望んでやまなかった)」と語った。
 それが前王妃で反逆者のアン・ブーリンである事は言わずもがな、であった。
 メアリーは父とアンが自分を殺害しようとしていた、という事実を知り、その場で昏倒したという。
 翌年10月、ジェーンは王子エドワードを出産した。
 メアリーは新王子エドワードの名付け親として、ハンプトン宮での洗礼式にも参加した。
 ジェーンは底意地の悪いアンとは異なり、メアリーを引き立てようと心を砕いた。
 真冬、メアリーともども毛皮に身を包み、同じ橇に乗って凍結したテムズの川下りを楽しんだこともあった。
 しかしメアリーが恩返しとしてできた事は、出産後わずか10日で亡くなったジェーンのために、喪主としてウィンザー城まで棺に付き添った事だけだった。

 メアリーは行き遅れた庶子の王女という中途半端な立場として、宮中に留まっていた。
 それはヘンリーの生存中も、異母弟エドワードの治世の間も変わらなかった。
 ただ亡き母への思慕と、カトリックの信仰だけが心の支えであった。

 メアリーが突如として脚光を浴び始めたのは、エドワードの病が篤く、この先長くないことが鮮明になった時であった。1542年にヘンリー8世が改訂した王位継承順によれば、エドワードの後を次ぐのはメアリーだった。
 しかしエドワードは狂信的なプロテスタント信者であり、野心的なノーサンバーランド公は、そこに目をつけた。王の遠縁ジェーン・グレイもまた熱心すぎるほどのプロテスタントであった。

 メアリーは熱心なカトリック信者であったが、長年日陰者の立場であったためか、肉親縁者(アン・ブーリンの娘・異母妹エリザベスも含めて)陰 日向なく接したようである。

 メアリーの宝石目録の中には、エリザベスから贈られた小さな宝石(my Lady Elizabeth's grace)も含まれていたし、従姉妹のジェーンには、スコットランド皇太后公式訪問のレセプションで着るための、金襴とベルベット製のドレスを贈った。

  それに対してジェーンは派手過ぎるといって拒否し、メアリーのミサに参加しては「迷信深い偶像崇拝」といって、声高に非難した。ノーサンバーランド公はそんなジェーンこそ、異母姉メアリーより後継者に相応しいとエドワードに吹き込んだのである。

 しかしジェーン本人は、メアリーを出し抜いて即位する気などなかった。ジェーンはあくまで狂信的な「英国国教会」信者であって、平等や民主主義を信条とする独立派ピューリタンではなかった。

  いわば王室御用達宗教の信者であればこそ、正当な王位継承法を覆すなど、大それたことを考えるはずもなかった。主役はあくまで野心家ノーサンバーランド公VSメアリーであった。

 1553年7月6日にエドワードが息を引き取ると、その3日後には議会においてジェーンが女王である、と宣言され、翌日には戴冠のためにロンドン塔へ移った。
 しかしこの決定は、国民はもとよりジェーン自身当惑した。
 ノーサンバーランド公は、王の死を伏せてメアリーをおびき出すつもりであったが、事前に察知され、彼女はノーフォークへ逃走した。
 ノーフォーク公トマス・ハワードの支持を得て、ケニングホール、フラムリンガム城、ソーストン・ホールを転々とした。その間ノーサンバーランド公側も逆襲に出て、ソーストンを急襲したが、ここでもまたメアリーは間一髪で脱出した。
 燃えさかるソーストンの館を眺めながら、「燃えるに任せるがいい。私が権力を握ったら、さらに良い館を建ててやる」と言い放った。
 ノーサンバーランド公はメアリーの国外逃亡を阻止するため、港を封鎖したが、海軍はメアリー支持を表明して反乱を起こした。

 結局ジェーン・グレイの女王僭称はたったの9日間で終わった。
 ジェーンの母サフォーク公妃は家族の慈悲を請い、捕らえられたノーサンバーランド公自身もまた涙ながらに「女王万歳」を口にする有様だった。
 サフォーク家は許されたが、当然ながらノーサンバーランド公自身は反逆罪を宣告され、1553年8月23日に処刑された。ジェーンは公爵の息子の嫁という立場もあって、ロンドン塔に監禁された。

 7月20日、ノーサンバーランド公が捕らえられたとニュースが流れると、市民らは
「メアリー万歳」を叫びながら帽子を投げ、歓呼の声をあげた。
 1553年7月30日、第2王女エリザベスはコルチェスター街道で、ノーフォークから
帰還したメアリー一行を出迎えた。メアリーは昔のように、エリザベスを親戚縁者として扱い、手を取って歓迎の意を述べた。

 1553年10月1日、ついにメアリーは初の英国女王として登極した。
 その4日後、初めて開かれた議会での議題は、母キャサリンの王妃としての正当性と離婚の撤廃だった。
 これは当然の事として受け止められ、ほとんど異論なく通過した。
 長い長い、気の遠くなるほど長い道のりだった。メアリーは常に1人で静かに涙を流し、得意な刺繍をし、音楽を演奏して気を紛らわせる、哀れな年増女に過ぎなかった。メアリーはその存在じたい、否定され続けてきた。
 今は違う。今メアリーは英国最高の権力者であった。
 「復讐」・・その文字が具体的に心に浮かんだか否か、定かではない、
 しかしあの懐かしい時代、父と母が仲良く連れ添い、カトリックの素朴な信仰が人々の連帯であった昔に戻るという夢が、目の前のプロテスタント達の利害と真っ向から衝突するのなら、それこそがメアリーの用意した壮大なる「復讐」であった。

 メアリーの意図を薄々察していたカール5世は、駐英大使シモン・ルナールを通じて急激なプロテスタントへの迫害は、スペインの立場を悪くするので控えるよう、忠告してきた。

 それを受けて即位直前の8月12日には、女王は国民が良きカトリック信者に戻ることを望んではいても、強制するつもりはない、と宣言していた。
 が、しかし即位した今となっては、いちいち反カトリックのデモを繰り返す狂信者の群は目障りであった。

 政治家として、粛正する必要に迫られていた。問題なのは、メアリーの選んだ「手段」であった。

 メアリーは忠実な配下であったソールズベリー伯爵夫人の遺児で、ローマへ亡命していたレジナルド・ポールを法王特使に任命する一方、ウスター主教ヒュー・ラティマーやロチェスター主教ニコラス・リドリー、カンタベリー大主教トマス・クランマーらをロンドン塔へ投獄した。ラティマーやリドリーはエドワード治世下で出世した人物であり、クランマーに至っては、母キャサリン王妃追放に一役買った仇敵であった。

 メアリーは英国国教会を筆頭とするプロテスタントが、単なる宗教ではなく、愛国主義と密接な関係にあることを見落としていた。メアリー自身も母から受け継いだスペインの血を意識していて、結婚するなら、英国人ではなく、母の実家であるスペイン・オーストリア王家の王子を希望していた。
 そしてプランタジュネット家の血を引く王族コートニーの求婚を退け、カール5世の息子11歳も年下のフェリペを選んだ。フェリペを選んだ事は、英国国教会ではなく、カトリックを選ぶ事をも意味していた。
 ここにいたり、メアリーと英国の関係は、目に見えない民族紛争と化した。

 案の定、1554年1月末、スペインとの併合に反対する愛国者ワイアットが反乱を起こした。メアリーはギルド・ホールに赴き、市民代表に向かって自分が女王であることを力説することで、女王が「国民の象徴」と意識させることに成功し、反乱は尻つぼみに終わった。

 1554年3月、メアリーはフェリペ代理のエグモンドを通して仮結婚を行った。
 花婿本人は7月になって英国に到着し、2人はウィンチェスターで初めて対面した。
 27歳のフェリペはほっそりとした小柄な男で、小さな青い瞳と茶色い髪の持ち主だった。
 一方のメアリーは、ベネチア大使ミチェイリの記録によれば「声は大きく野太い」38歳という年齢よりも老けて見える、中年女であった。近視なので、人の顔を見るとき睨む癖があった。
 メアリーにとっては最初で最後の恋人であるのと同時に、初めて持つはずの家庭生活だった。
 夜明けから深夜まで多忙な日々の中で、メアリーはフェリペと食事を共にし、その合間に得意のリュートを奏でて見せた。
 その年の11月、メアリーは妊娠したと思いこんだ。だが翌年の5月には、それがただの思いこみに過ぎなかったことが判明した。侍女たちもまた、女王は最初から妊娠などしていなかった、と証言した。
 そして8月29日、フェリペは帰国してしまった。

(妊娠などしていなかった。私には何も残されていない・・・)
 涙を流しながらフェリペを見送ったメアリーの胸には、どうしようもない虚無感が根を下ろしたに違いない。

 夢見ていた家庭生活の現実とのギャップと孤独感が、メアリーと狂信的プロテスタントとの戦いを加速させていった。

                         

  参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
Tuder History Lara E. Eakins
Mary Tuder by Elisabeth Lee
Mary Tudor: The Spanish Tudor by H.F.M. Prescott
幽霊のいる英国史 石原孝哉 集英社
女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


 

メアリー1世 英国 女王 チューダー王朝

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メアリー1世/マスタージョン作1544/ナショナルポートレートギャラリー蔵  

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