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メアリー1世 英国 女王 チューダー王朝

           
病人に触れるメアリー/メアリー女王の祈祷書挿絵/
ウェストミンスター大聖堂図書館蔵


メアリー1世③   
 
 エリザベスにあってメアリーに決定的に欠けていたのは、自分の本音を巧みに隠す政治的手腕だった。
 メアリーは常に必死であった。まるで努力によって全てが解決するかのように、正面からぶつかって行く以外に術を持たなかった。計算も取引も陰謀も、無縁だった。
 もし一流の政治家であるなら、狂信的プロテスタントとの戦いにおいて、決して相手を安直には殺さなかったに違いない。屈服させ屈辱を与えて、政治的に葬り去るか、反逆者としてタイバーンの処刑場で八つ裂きにしただろう。反逆であれば、かならず民衆はメアリーの側に立つ。なぜならこの時代、王政はまだ、自然現象と同じく絶対的なものだったのだから。
 ヘンリー7世やヘンリー8世が、あれだけ多くの人間を「殺して」おきながら、政治的に安定していたのは、巧みに相手に「反逆」のレッテルを貼ったからである。

 しかしスペイン人を夫に持ったメアリーが、プロテスタントを正面から迫害すれば、あたかも政敵が外国に対する独立性の証であるかのように、愛国心を煽る結果となる。
 本来ならば政敵を殉教者として、神格化させる事だけは避けねばならなかった。現にエリザベスは多くのカトリック信者を迫害したが、虐殺したのは明白な反逆者と庶民であって、その他はわざと生かしておいて、屈辱を与えている。
 アイルランドの反乱が終結したのも、指導者のオニールを「殺した」からではなく、政治的に失脚させたからである。
 また、英国国教会は独立派ピューリタンを激しく迫害したが、その手段は派手な処刑ではなく、公職からの全面的追放と賎民のレッテルという、陰湿かつ効果的な方法だった。

 1555年10月16日、ラティマーとリドリーが火刑に処せられたが、ラティマーは同じ杭に縛り付けられているリドリーに向かって「今日この良き日、我々は英国の燃えるロウソクとなるのです」と言い、絶命するまで神を賛美した。
 一方1556年3月21日、クランマーが火刑にされた時には、いったんはカトリックに転向しておきながら、最終的に死を避けられないと悟った彼は、「転向の書類にサインしたのは、この手が裏切ったからだ」と叫び、迫り来る炎の中に右手を突っ込んだ。
 それらの光景を、民衆は民族的英雄のように、熱狂しながら見守った。
 狂信的プロテスタントのジョン・フォックスは、著書「殉教者列伝」の中で、その時の情景をうれしそうに「After he had stroked his face with his hands, and as it were bathed them a little in the fire, he soon died, as it appeared, with very little pain.

(彼の顔が手で打たれた後、小さな炎に包まれ、微かな苦しみのうちに速攻死んだ)」
と、書き残している。
 メアリーはわざわざ仇敵をヒーローにしてしまった。
 死ぬことで自分の熱狂的信仰心をアピールしたい狂人に、格好の舞台を用意したのだ。

 プロテスタントへの迫害が強まるにつれ、国民は王妹エリザベスの到来を期待した。
 いつしかエリザベスはメアリーのライバルと見なされていた。
 カトリック国樹立の夢はますます遠ざかった。

 エリザベスに対する疑念と愛情は、常にメアリーを苦しめてきた。
 ワイアットの反乱時、ジェーン・グレイはカトリックへの転向を拒否したので、あっさり処刑することができたが、エリザベスは徹底的に関与を拒否した上に、カトリックともプロテスタントともつかない玉虫色の態度を押し通した。これがヘンリー8世なら、「疑問がある」という点だけで処刑に踏み切ったに違いない。
 しかしメアリーは、議会の説得はもとより、自分自身を納得させることさえできなかった。
 1554年3月17日、エリザベスをロンドン塔に収監したものの、同年5月19日には解放して、リッチモンドへ移送せざるをえなかった。

 メアリーは異母妹をヒステリックに責め、詰問しても、周囲の目を無視してまで殺すことはできなかった。それどころか、心細かったのであろう、フェリペが国を去ると、手をさしのべる事さえあった。肉親の少ないメアリーにとって、エリザベスは宿敵の娘であるのと同時に、たった1人の妹でもあったのだ。
目的のために手段を選ばぬ冷徹さと、周囲を納得させるだけの説得力を持たなかったことが、メアリーの悲劇の源でもあった。

 およそチューダー王朝の中で、メアリーほどその人格を否定され、侮辱され続けた存在はいなかったであろう。 それに比べてエリザベスは、幸運にも自己否定を招くような激しい侮辱は受けなかった。それ故に孤立しても、冷静に自分自身の立場を計算するだけの余裕があった。エリザベスにとって、世界は自分を中心に回っていた。
 しかし世界から否定されたメアリーには、自殺行為に近い頑強さ以外、己の存在を主張する手段を見出せなかったのである。
 プロテスタントへの宗教的迫害も、いわば政治的な自殺行為に近かった。

 強者の理論がまかり通る中、常にメアリーは弱者の立場に置かれてきた。弱者はその弱さによって同情されることはほとんど無い。むしろ次々利用され、より搾取される対象となるだけである。
 そういった意味で、夫フェリペもまた「強者」であった。

 1555年8月に妻を見捨てて帰国したままだったフェリペは、そのくせ使者を通じて要求ばかりしてきた。

 対フランス戦役に、英国を巻き込むためであった。メアリーはスペイン海軍のために15万ダカートの援助をせざるをえなかった。1557年1月には、さらにスペイン領オランダ防衛のために、6000人の歩兵と600人の騎馬兵の増員を約束した。

 彼女は政治よりむしろボランティアに生き甲斐を見いだしていた。貧民街の家々を訪問しては、行政官がきちんと対応しているか確認した。聖金曜日には伝統として、病人の体に触れ、その回復を祈った。
 そんなメアリーの肉体を、子宮癌が蝕み始めていた。
 1557年3月、フェリペは再びやってきたが、彼の脳裏にはメアリーを利用することしかなかった。

 たった4ヶ月留まっただけで、7月には英国から去っていった。

 スペインの戦争に巻き込まれた英国は、フランスの攻撃目標となった。1558年1月、フランス軍は大陸に残っていた最後の英国領カレー港を攻撃して陥落させた。ここに至り、メアリーは自分が政治家として最悪だったことを悟った。
「私が死んで解剖したら、心臓の上にカレーの字が見えるでしょう」
メアリーはそう呟いたという。

 フェリペは衰弱していく妻を労るどころか、すでに見捨てていた。
 メアリーの先が長くないことを見越して、エリザベスを後妻候補に決め、スペイン大使ファリアを派遣してエリザベスにおべんちゃらを囁いた。
 その一方でメアリーに対して、早急にエリザベスを後継者に指名するよう催促した。メアリーは拒絶した。   たとえ唯一の王位継承候補であったにせよ、自分で指名だけはしたくなかった。

 その年の秋までに癌は悪化し、11月には死期が近づいていた。
 寝たきりとなり、ふと意識を取り戻したメアリーは、ベッドの脇で侍女達が泣いているのに気づいた。
 「泣かなくていいのよ。私は夢の中で、天使みたいな小さな子供たちに取り囲まれて歌ったり踊ったりしているのを見て、安らぎを与えてもらっていたのだから。」
 しかしメアリーは自身も1人涙を流し続けた。事実上夫を失ってしまった事、孤独、何よりも政治家としてカレーを失った事実が最後までメアリーを苦しめた。
 1558年11月16日朝7時、メアリーは静かに息を引き取った。
 その直後、指輪が抜き取られ、姉の死の知らせを期待して待っているエリザベスのもとへ届けられた。

 享年42歳。

 メアリーは政治家として不向きであった。むしろ即位しない方が幸せだったのかもしれない。
 しかしメアリーを見ていると、その弱者としての生涯に、深い悲哀を感じざるをえない。
 「ブラッディ・メアリー」なるあだ名も、ジョン・フォックスらプロテスタントの狂った女性差別主義者達が、勝手に作り上げたイメージに過ぎない。
 なぜなら、チューダー王朝の諸王は、いずれもメアリー同様に多数の政敵を葬ってきたのだから。

 エリザベス朝の英国国教会の主教たちが、自由と平等を訴える独立派ピューリタンに加えた迫害は、20世紀の歴史家をして「マッカーシーの赤狩り如し」と言わしめ、重臣セシルですら、「スペインの異端審問のようだ」と驚かせるほど熾烈を極めた。独立派の側から見れば、かれらもまた「ブラッディ」と呼ばれるべきであろう。

 メアリーは実父からもアン・ブーリンからも、何度も命を狙われた。
 その事実を父親本人から聞かされた時、ショックのあまり気を失った。
 メアリーが生きながらえたのは、単にアンが暗殺に失敗したからであった。
 もしアンが男児を産むことに成功していたら、その時は十中八、九、「王子の安全のため」と称して堂々と処刑したに違いない。事実、アンはキャサリンの死期が迫った時にも娘と対面させなかったばかりか、孤独のうちキャサリンが亡くなった時、ヘンリーと手を取り合って喜び踊っている。

 にもかかわらず、アンが殺されるべくして殺された事実をもって過剰に同情している人々を見る時、人間理解の浅薄さと想像力の貧しさに、強い憤りを感じる。
 英国国教会側が自らの行動を棚に上げ、メアリーを罵倒する様も、恥知らずと言うべきだろう。

 283人もの狂信者たちを焼き滅ぼした炎は、虐げられたメアリーのせめてもの復讐であった。

 メアリーはかれらを政治的に葬り去るのではなく、「その手で」殺したかったのだ。
 罪なくして追放された母のために。そして自分自身のために。

 メアリーは政治家ではなく、迫害され続けた1人の女性だった。

(メアリー1世に関する他のページ)
 →メアリー1世のウェディングドレス

幸薄かったメアリーがおそらく人生でもっとも幸せだった一瞬

参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
Tuder History Lara E. Eakins
Mary Tuder by Elisabeth Lee
Mary Tudor: The Spanish Tudor by H.F.M. Prescott
幽霊のいる英国史 石原孝哉 集英社
女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


 

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