メアリー1世/リック・クラバートン作ステンドグラスの下絵1557/所蔵不明
メアリー1世の肖像画ギャラリー
メアリー1世家系図
1516年2月18日、グリニッジ宮で誕生
1553年11月30日、ウェストミンスター寺院にて戴冠
1558年11月17日、セントジェームス宮にて崩御 享年42歳
全てが因果関係にあって、偶然や確率という発想の許されない世界は息苦しい。
しかしチューダー王朝の人々が生きていたのは、まさにそういった世界であった。
ヘンリー8世と最初の妻キャサリンは、習慣性流産に苦しめられていた。
2回は出産したものの、新生児は半年と生きていなかった。
当時の感覚から言えば、それは何らかの「罰」だった。
では「罰」とは何か。それはキャサリンが以前ヘンリーの兄アーサーの妻だったからだ。
旧約聖書のレビ記には「汝、兄弟の妻を娶るなかれ。2人は子無きままだろう」という呪いにも似た記述があった。
1516年2月18日、キャサリンは最初で最後の健康な子供を産んだ。
父方の叔母・サフォーク公妃メアリーにちなんで、「メアリー」と名付けられた。
それは皮肉にも、聖書の記述が迷信であったことを裏付けるものだった。
当初ヘンリーは、自分によく似た赤褐色の髪の、母親譲りの灰色の瞳をした娘を「The Greatest Pearl in the Kingdom(王国で最も素晴らしい真珠)」と呼んで溺愛した。
メアリーはそのシンボル・カラーの青と、チューダー王朝のシンボル・カラーの緑の服を着た侍女達に取り囲まれ、「メアリー内親王家」の女主人として君臨していた。
音楽の才能があり、バージナルを奏でることもできれば、自ら作曲もしたという。
そんな幸せに陰りが見え始めたのは、1520年代終わり、メアリーが10代に入ってからだった。
ヘンリーは愛人のアン・ブーリンと再婚したいがために、キャサリンを追い出す口実として、レビ記の記述を悪用した。ヘンリーの主張によれば、キャサリンが男子を産めなかったのは、天罰だった。
キャサリンを追放して、アン・ブーリンが王妃となり、第2王女エリザベスが誕生すると、メアリーは内親王の称号を剥奪された。
メアリーは父に宛てて「私は両親の結婚が正当なものであったと信じています。そうでなかったと主張することは、神の怒りを買うでしょう。それ以外は、私は父上の従順な娘です」と書き送った。
それに対してヘンリーは「横柄にも、内親王の称号を僭称している」と、答えただけだった。
新王妃アン・ブーリンはノーフォーク公を派遣して、「これから新王女エリザベスのもとで働かせるつもりだから、身の回りの物をまとめるのに30分の猶予をやる」と言ってよこした。
メアリーはアンによって母に手紙を書くことも禁じられ、宝石は没収、アンの叔母のシェルトン夫人の監視下、暴力をふるわれる事すらあったらしい。
そんな孤立無援の中でも、メアリーは母を信じて気丈であった。
ノーフォーク公に「新王女に対して敬意を払わないのか」と叱責された時、毅然と「王女は私以外にはおりません。妹としてなら認めましょう」と答えた、という。
後にアンは反逆を問われ、1536年5月、処刑された。
父と娘の相克はその後も続いた。ヘンリーはキャサリンとの結婚が不法なものであったと認めるよう迫ったが、メアリーは死を覚悟の上で拒絶した。
使者であったノーフォーク公は、「自分の娘であったなら、壁に頭を叩きつけて焼き林檎のように潰してやったのに」と、地団駄を踏んだ。
ヘンリーはメアリーを、反逆者としてロンドン塔へ送ることも検討した。
危機を感じた神聖ローマ皇帝カール5世が介入して、説得に当たった。
メアリーは皇帝の立場を考えて、仕方なくキャサリンの王妃の地位を否定する書類にサインせざるをえなかった。時に1536年6月15日、メアリーは20歳になっていた。
参考資料/
The Tudor place Jorge H. Castelli
Tuder History Lara E. Eakins
Mary Tuder by Elisabeth Lee
幽霊のいる英国史 石原孝哉 集英社
女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社