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聖母子/ルーカス・クラナッハ1529年

バーゼル美術館蔵            

レティス・ノウルズ
(1539~1634)

レティス・ノウルズ/ガウワー作

 バース・コレクション所蔵
    (全体画像)

 

   ノウルズ家系図               

 レティスは官能的な美女と伝えられているが、その肖像画は、現代の感覚からすると、不自然に見える。
 それは当時の化粧法によって、白粉で顔を塗りつぶし、下唇にぽってりと紅をつけるからである。
 今ではさしずめサーカスのピエロのような顔であろう。

 だが、英国人には珍しい切れ長のセクシーな瞳、細い鼻筋の端麗な、どこか東洋的美を漂わせる顔立ちは、化粧を落としてみると、ルーカス・クラナッハの描く美女に似ていたのではなかろうか。

 レティスはヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの姉/メアリー・ブーリンの孫、女王エリザベス1世にとっては、従姉妹の娘にあたる。
 だが、アンとメアリーは姉妹とはいいながら、国王の寵愛を争い、お互い子供まで産んだライバル同士であった。なぜヘンリー8世が美貌のメアリーではなく、アンを妃にしたのかと言えば、メアリーはキャリーという男の妻だったからだ。
 メアリーは人妻の身で、国王にも身を任せていたのである。
 そんな因縁を持った姉妹の血を引くのが、女王エリザベスとレティスであった。

 レティスの母/キャサリン・キャリーは、メアリー・ブーリンの1番目の夫の長女で、女王の寝室付き女官だった。
 夫のフランシス・ノウルズは清教徒であったために、メアリー1世女王時代に大陸に亡命を余儀なくされていた。
 そんな2人の間に生まれたのがレティス・ノウルズだった。

 レティスは1562年、この当時の感覚としてはやや遅い、22才で初代エセックス伯ウォルター・デヴァルーに嫁いだ。
 1572年、夫エセックス伯は1200名を率いて、アイルランド反乱鎮圧に赴いたが、数々の虐殺を行ったにも関わらず、反乱は完全に終結しないまま、エセックス伯は4年後の9月22日、ダブリンの地で赤痢に罹り、亡くなった。
 その数年前から、レティスにはある「情事」の噂がつきまとっていた。

 夫が不在中、レティスはテムズ川岸のダーラム・ハウスに住んでいたが、近所には、女王エリザベスの愛人レスター伯ロバート・ダッドリーの屋敷があった。宮中では顔見知り程度に過ぎなかった2人が急速に接近したのは、レスター伯がケニワースでの女王御幸の祭典に着用するために、礼服を借りた事がきっかけだったという。
 当時の中傷パンフレットでは、レスター伯と不倫していたレティスは、夫が一時帰国する寸前、愛人の子を堕胎していた、という。
 真偽のほどは不明である。しかしレスター伯が、女王の愛人という危険な立場も忘れて、レティスに惚れ込んだのは事実であろう。
 その時点で、レティスは夫との間にペネロープ、ロバート(後の第2代エセックス伯/後に処刑)、ドロシー、ウォルターの4子を産んでいた。

 1575年スペイン人デ・グアラスの報告によれば、レスター伯とエセックス伯はアイルランド問題をめぐって深い対立があったという。
 女王エリザベスは寵愛するレスター伯の言うがままに、エセックス伯のやり方を非難し、口を挟んできたからであった。
 1576年、エセックス伯はダブリンで赤痢のために亡くなったが、巷では「レスター伯が暗殺したのではないか」と囁かれていた。

 夫の死後約2年が経過した1578年9月21日、レティスとレスター伯はレティスの父の立ち会いのもと、ひっそりと結婚する。これは女王エリザベスにとっては、寝耳に水だった。

 女王エリザベスは2人の結婚に驚愕し、かつ激しく怒った。
 2人を反逆者としてロンドン塔に投獄するよう命じたが、周囲は反対した。
 2人はともに結婚歴はあるが今は独身であり、また王族でないので、その結婚を女王に申告せねばらない義務もなかった。それを無視して投獄することも不可能ではなかったが、感情的過ぎる行為だった。


 

 そのかわり、女王エリザベスはレスター伯にレティスを宮中に連れてくるな、と命じた。レティスはエリザベスが決して持つことが叶わなかったもの・・・・・美貌と多産を、2つながら持ち合わせていた。
 顔など、見たくもなかった。
 レティスの娘ドロシーと、スコットランドのジェームズ6世との縁談が持ち上がると、女王は「そんなことをすれば、ジェームスは英国王位を継ぐ機会を逸するぞ!」と罵倒した。

 1579年、レティスはレスター伯の唯一の息子を産む。
 父親と同名のロバート・ダッドリー少年は、デーンビー男爵の称号を与えられながら、惜しくもわずか5才で亡くなってしまった。

 後に女王エリザベスはレティスの長男/第2代エセックス伯を寵愛したものの、依怙地になってレティスを無視し続けた。寵臣の頼みに折れて、何度かレティスと会う約束をするが、そのたんびに待ちぼうけを喰らわすのだった。
 あるパーティー会場で、レティスは300ポンドもする高価な宝石を持ちながら、女王に献上すべく待機していたが、結局御幸は取りやめとなってしまった。
 エセックス伯はヒステリーを起こしたが、無駄だった。
 しかししばらくして、エリザベスは自分の依怙地さを恥じたのか、レティスと謁見した。
 レティスは万感の思いを込めて、遠縁にあたる女王の手と胸に接吻し、抱きしめた。
 女王エリザベスもまた、レティスを抱きしめて接吻した、という。

 1585年、レスター伯はオランダにおける対スペイン戦に派遣され、翌年の1月、オランダ総督に任命された。
 その頃から、レティスはまた別の男性と浮き名を流し始める。
 今度は当時の主馬頭だったクリストファー・ブラントがお相手だった。
 1588年9月4日、レスター伯が亡くなると、翌年の7月にはすでに再婚している。
 しかし3度目の夫のブラントは、第2代エセックス伯が没落してクーデターを試みた時、共謀者として処刑された。レティスは長男と3人目の夫を同時に失ったのだった。

 最初の夫との間に生まれた娘のペネロープは、英国1の美女との誉れ高く、ロバート・リッチなる男に嫁いだが夫婦仲は悪く、ペネロープはフィリップ・シドニーと不倫の愛に陥った。
 シドニーが亡くなった後は、マウントジョイ卿と愛し合い、夫のリッチが離婚に同意したにも関わらず、ジェームス1世王の怒りを買って再婚を禁じられた。
 そのため、ペネロープは愛人のまま生涯を送り、その墓はただ名前のみを記した粗末なものであった。

 3人の夫の死を見送り、息子たちを失い、娘の不幸な結婚を見届けてもなお、レティスは生き続けた。
 そして1634年、当時としては驚異的な95才という長寿を全うした。
 すでに女王エリザベスは崩御し、次のジェームス1世すらなく、時代は動乱のチャールス1世の治世を迎えていた。

                        

   参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
エリザベスとエセックス ストレイチー著 中央文庫
ルネッサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社

 

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