イングランドには中世以来、美しい伝統があった。それはほとんど土地を持たない農民達が互いに譲り合い、助け合いながら共有地で生活の糧を得ていたことである。個人で土地を持たずとも、それはそれなりに、ささやかな幸福に満ちた村落共同体であった。
その世界に亀裂が入り始めたのは、15世紀の半ばだった。長引く戦乱が社会のあらゆる部分を腐食させていった。
富める者の、貧しい者に対する哀れみの情も薄らぎ、地主たちは強引に共有地を独占していった。ささやかな田畑は踏みにじられ、次々と放牧地に変わっていった。これが世に言う、「囲い込み(Enclosures)」である。
80年間にわたって緩やかに広がっていった各地の「囲い込み」現象が本格化したのは、1470年代のことである。
事態を重く見た議会は、1489年と1515年の2度にわたり、共有地の独占を禁じ、住民を立ち退かせた村の再建や、放牧地を元の耕作地へ戻すようにとの命令を出した
しかし効果がなかった。元来英国という国は、地方豪族の力が強く、中央集権の馴染まない国民性があった。しかも悪いことに、中央の高官まで率先して共有地を荒らしていた。
1517年、英国審議会は、大法官トーマス・ウルジー枢機卿が持っていたミッドランド郡の7つの囲い込み地/36000エーカーについて、周辺住民の激しい抵抗運動を報告した。
村落共同体への打撃はそれだけに止まらなかった。ヘンリー8世の修道院解体政策により、農民にとって地域の福祉センターの役割もかねていた修道院が、次々潰され、修道院の所有していた土地もまた、囲い込みの一部となった。
農民達は最後の避難所さえも奪われてしまったのである。とりわけノーフォーク州では、1527年から1529年にかけて麦の不作が続き、飢えた人々の一揆が相次いでいた。
耕すべき土地もなく、村さえ放牧地にするため奪われた農民達は、修道院に身を寄せることさえできず、難民となった。
1531年、ヘンリー8世は乞食をライセンス制度にして、許可証を持たぬ難民を鞭打ちや絞首刑など、過酷な罰を科した。
その上、有罪となった難民たちを奴隷として地主たちに配分することさえ、やってのけたのである。
(ただし法律により2年で撤廃、その後断続的に復活)
1537年、再びノーフォークで暴動が起き、その4年後にはグリストンにおいて、ジョン・ウオーカーなる人物が「上流階級を破壊せよ」と訴えた。
1549年、1381人の農民が一揆を起こした。この一揆の波紋は、その年の7月には他州・・・エセックス、ケント、ウィルトシャー、バックリングハムシャー、オックスフォードシャーへと広がっていった。
しかも1547年からのひどいインフレは、食料品の値段を7年間で48パーセントも上昇させていた。翌48年、物価はやや安定したが、49年には前年よりも11パーセントも上がっていた。
1547年には、ヘンリー8世が崩御し、その子10歳のエドワードが即位した。新王の摂政となったサマーセット公エドワード・シーモアは、囲い込み禁止を宣言した。
国民の人気はサマーセット公に集まったが、同時に彼は宮中で孤立した。これが後にシーモア家の没落へとつながっていく。
ロバート・ケット(Robart.Ket or Kett)と弟のウィリアムは、ノーフォーク/ウィモンドハム出身の名士だった。
兄のロバートは皮職人、弟は肉屋だった。
ケット家はノルマン王朝成立の頃からの旧家でもあり、三カ所に領地も持っていた。
年間収入は50ポンド、当時としては裕福な部類に入る。当然のことながら、彼らもまた地主の一人として囲い込みに手を出していた。しかし悲惨な農民達を目にして自ら囲い込みを解くと同時に、近隣の囲い込み破壊活動も指揮するようになった。
彼は1549年6月、まず仲間を指揮して自分の村の他家の囲い込みの柵を破壊し、6週間の間地主をよせつけなかった。
その報に刺激され、ケント、ハープハム、アトルボローと、次々と柵の破壊が広がっていった。しかしこの段階では、まだ組織的な動きはなく、怒りまかせの散発的な行動に過ぎなかった。あちこちへと連絡が飛ばされ、村々で今後の対策会議が開かれた。
「私は行動するための心構えができている。征服するだけではない、偉大な行為をも行うことができるのだ。囲い込みの破壊を広げていく。まず私の手が、最初に実行するのだ。」
ケット兄弟は集結した1000人の農民を組織して、武装集団を結成する。
1549年7月7日、かれらはウィルモンドハムを出発し、ノリッジを目指した。
4日後、中途のイートンの森で野営した。
「我々の父祖の記憶の中にあった国には今、溝が掘られ、柵が作られた。
牧場は囲まれて我々を遮っている。この自然は水も大気も家畜も魚も、それらを滅ぼし増やし、満たしている。
けれど、新しい形式が、甘いものから甘いものへ、富を楽しむためだけに、全てを奪おうとしている。我々が草の根を食って、衰弱しながら働く一方で!
同じ空気を吸い、楽しんでもよいはずなのに!。牧場の囲いが、我々の生活や楽しみを渇望に変えて、普遍的なものにしてしまうだろう。我々はもはや、これほど大きく残酷な傷口に耐えることはできない。我々はもはや静かな心で、高貴なる人々の貪欲さを眺めていることはできないのだ。この残酷な行為を持続させるぐらいなら、天と地とをごっちゃにさせた方が、まだましではないか?。我々が自然から与えられたもの、肉体、魂、同じものを自然から与えられながら、なぜこれほどまで違った生活をしなければならないのか?。職業において、なぜこれほどまでに異なるのか。いまや問題は末端にまで達した。
我々は掘られた溝を埋め、柵を倒し、すべての人の共通の牧場とするだろう。
(kettの演説/Tudor placeより抜粋/著者訳および抜粋)」
英国史を調べていくと、時折驚くほど革新的で現代的なものにぶつかる時がある。
このケットの演説もその一つである。17世紀清教徒革命における平等主義派の思想でさえフランス大革命より150年早いというのに、ケットの思想は、それよりさらに100年も古いのである。
1549年7月12日、ケット達はマウスホールドを本拠地とする。
占拠した屋敷において、豪族(ジェントリー)らを拘束していた。反乱軍は無意味な虐殺を極力避けた上、農民たちの怒りからジェントリーらを保護さえした。
ケットは敵は囲い込みであって、国王と対立する意志はなかった。7月20日までに、ケットは「我らは国王の代理人である」との宣言を出している。この時点で、反乱軍は20000人に増えており、それに伴い、ケットはマウスホールドに自前の議会を作った。
ノーフォークの24人の代表と、サフォークの101人の代表が集まった。
かれらは「改革のオーク」と名付けたオークの巨木の下で、今後のことを検討し合った。
そして国王に対して、29条からなる請願書を提出した。それは囲い込みの禁止と、海や川での漁業権の復活、公平な借地料の制定、聖職者の保護、及びそれらを監視する自由選挙による役人の公選などの内容を含んでいた。
このことから、当時のジェントリーらが、共有地のみならず河川や海での漁業権さえも独占していたことがわかる。
7月21日、国王からの使者が来て、武装解除するよう命じたが、ケットは拒否。
近郊のノリッジ市は戦闘に向けて城門を閉じ、大砲を向けてきた。翌22日、ついにケット側からの攻撃が始まった。
川を挟んだノリッジに向けて、水中を横断、またはビショップ橋を横断し城壁からの攻撃をかわしつつ、the Hospital meadowと呼ばれる牧草地に達した。
10日後、the Hospital meadowでの橋頭堡から、再び攻撃し、ついにノリッジを落とした。
敵の指揮官ノーサンプトン卿は戦死し、ノーサンプトン軍は敗走。ノリッジに入った反乱軍はジェントリーの屋敷に火を放つのと同時に、敗残兵と敵協力者を探索した。
8月後半、ついに政府側も動き始めた。21日、傭兵を含む14000の兵を率いたウォーリック伯の軍がノリッジについた。この後、ドイツの傭兵隊14000が増援される予定だった。
いかに統制がとれ、志気があろうとも、数の上で劣勢な素人軍が3万ものプロの軍隊にかなうはずもない。
8月28日、激しい戦闘の末にケット兄弟は敵の手に落ち、絶望的な抵抗を続ける反乱軍残党も、武装解除すれば恩赦の見込みがあると知り、次々投降した。
ウォーリック伯は憎しみを込めて「改革のオークの木」を引き倒し、切断した。
反乱軍のリーダー9名がその場で絞首され、残る300名がノリッジ市中で処刑された。
兄のロバート・ケットは隣接する街スワングトンに連行され、一方弟のウィリアムはロンドンへと連行された。
11月、ウィリアムは一人王室裁判所法廷に立った。
「殺人者、反逆者・・・・」かれらが率先してジェントリーらを虐殺から守ったという事実はあっさり無視された。
一月後、ウィリアムは処刑のためにノリッジへと戻される。
12月7日、ケット兄弟は見せしめのために、兄ロバートはノリッジ城壁の上から鎖を首にかけられ吊された。
弟ウィリアムもまた、兄の後を追うように、故郷ウィモンドハム教会堂の塔の上から吊されたのだった。
ノリッジでは治安回復のために、国王を誹謗する言葉を口にするだけで逮捕された。
中央では、さかんに反乱への摂政サマーセット公の関与が取り沙汰されていた。そしてケットの裁判もまだ終わっていない10月、サマーセット公は反乱の責任を取らされる形でロンドン塔に投獄された。
翌年には釈放されたものの、すでにサマーセットの時代は終わっていた。囲い込みに心を痛め、「よき公爵様」と農民達から呼ばれた彼は、1551年10月、あのウォーリックによって再びロンドン塔へ投獄された。
そして52年1月10日、反逆罪で処刑されたのであった。
(追記)
最近になって、ケットの子孫がアメリカとオーストラリアに今も健在であり、1999年の反乱記念祭に地元に集まっていることを知った。日本は中国の習慣である「九族誅殺(反逆者は一族関係者皆殺し)」の影響で、反乱の首謀者の家族をも処刑するのが通例であったが、英国では基本的に反乱の当事者以外に処刑されることはない。
ケットは妻アリス・アップルヤードとの間に5人の息子がいたので、その子孫であろう。
1999年ウィモンドハムでのケットの乱記念祭の為に作られたメダル
中央は「改革のオークの木」
参考資料
/Making of the United Kingdom by Teaching History Online
Virtual Norfolk project( by University of East Anglia, Norwich.
the Norfolk Record Office, the Norfolk Studies Library, and Norwich Cathedral.)
Life in Tudor Times by Jorge H. Castelli