大いなる流れ~宗教改革から革命へ~(2)

「異端とは地中の鉛管のようなものだ。それが禁じられている国家の中で
*我々の目に触れることはないが、静かに流れ続けている。
自由のあるところでは、正体を表して処罰されるだろう」
(ストリックランド卿の言葉 1656年)

 庶民が英訳された聖書を読み、聖書の原点に触れることは、常に絶対王政とその下にある法に挑戦することでもあった。
それは王政のみならず、階級社会を容認した従来のプロテスタントの基盤をも揺るがしかねない脅威を秘めていた。
 1381年、「アダムが耕し、イブが種をまいた時、誰がジェントルマンであったか」という問いかけは、エドワード6世の時代で広く流布され、女王エリザベスの代に入って1593年にも持ち出された疑問であった。

 14世紀初頭、1人の農夫が弁護士を通じて、
「はじめに、世界のあらゆる人々が自由だった」
と語った。この主張は脈々と英国史の中で生き続け、プロテスタントの時代に入って、日の目を見ることになる。
 4世紀の修道僧ペラギウス(360~420)の教義は、原罪を否定して自由意思を尊重し、努力によって救済されようという思想であるが、エリザベス朝において、農村に広く支持された思想でもあった。

 キリスト教全体を通して、「貧しさ」とは「罰」を意味していた。額に汗して働き貧困に苦しむのはアダムとイブが楽園を追放された故の罰であり、救われるべく決まっている者のみは豊かさを享受して、天国へ迎えられるのである。
 その思想はプロテスタントでも変わらない・・というより、むしろプロテスタントの方が根強かった。
かれらは選民思想だけではない、選民だけが世界を支配することができると説き、王権神授説を支持したのであった。
 ピューリタン神学者の間でも、どれだけの人間が救済されるのか諸説あった。
 1000人中1人という説もあれば、20人に1人、3人に1人といった具合である。
 エリザベス朝のカルヴァン主義の説教師は、大多数の人間が永遠の業火に苦しむと説法した。

 カルヴァンは語る。
「人間の本性に従えば、あらゆる者が隣人の主人となりたがり、善意から下僕になりたがる者はいない。人の本性は邪悪で歪んでおり、抑制する者がいなければ、隣人の目をえぐり取ってしまうのだから」支配者が必要である」
(カルヴァンもピューリタンであるが、一方「ピューリタン」にはロラード派や再洗礼派といった、いわゆる分離独立派Independentsがおり、カルヴァンら長老派Prysbyteriansとは一線を画した)


ピューリタンーーーーー長老派(カルヴァン派他)
      |   主張:選ばれた者だけが救われる。身分や王権精度を指示
      |      宗教指導者は一部のエリート
      |      × ↓(危険思想である、弾圧!)
      |ーーーーー独立派(ロラード派、再洗礼派、レヴェラーズ)
         主張:人間は平等だ、王権を否定する
            信者は全員平等だ


 しかし「聖書解釈集会Prophesyings」が一般的になるにつれ、聖書の神聖さに対する疑問、主教制度とそれが擁護する王政そのものへの批判に繋がっていく。
 教会は英国国教会や、長老派の場所であったために、その他「独立派」であるピューリタンは宿屋や居酒屋で聖書について語り合い、野外で説教したという。
 16世紀半ばのロンドン商人達は「悔い改めた者には罪がない」と主張し、1592年エセックスで異端者とされた説教師は、「世界中の人間が救われるのだ」と語った。

 ペラギウス派の流れを継ぐロラード派は、新約聖書の中で「財産の共有化」が語られている点に注目し、おりしも「囲い込み」によって共有地を奪われ貧窮していた農民のために、財産の共有化を訴えた。
 こうした共産主義的思想に対して、女王エリザベスは1562年、「39ヶ条」をもって禁止し、長老派のジョン・フィールドもまたロラード派を非難した。

 1588~9年にかけて流布されたロラード派のマープレリット文章は「女王陛下の大権を奪い、力づくで打倒しようとしている」「女王陛下の財産である主教制度の解散を目論んでいる」として弾圧の対象となった。

「そう、なぜ主教が必要かと言う者は、次にはなぜ王が必要かと問うだろう」
(マープレリット文章)

 マープレリット文章の影響は大きかった。
主教ホウィットギフトの配下バンクロフトは直ちに文章を差し止め、多数のピューリタンが逮捕された。おりしも1588年の無敵艦隊の勝利がピューリタン迫害への批判を遮り、宮中ではウォルシンガムとセシルの死によって、ホウィットギフトを抑える者が消えた。
 聖書解釈集会も禁じられた。
こうして女王エリザベスとピューリタンは対立したまま、チューダー王朝は終焉し、次のスチュアート王朝のジェームス1世も、1604年のハンプトン・コート会議で女王の意思を受け継ぐ決定をしたばかりか、「主教なくして国王なし」という思想を全面に押し出したのであった。

 そもそもこの会議は1604年1月、ピューリタン側が新教の自由を求めて提出した
「千人請願」について話し合うものであったが、途中ジェームスは、1人のピューリタン牧師の態度が無礼であったと怒り出し、英国国教会の新祈祷書導入に反対する牧師ら300人を追放するという、惨憺たる結果に終わった。
 元来ジェームスは女王エリザベスに比べて宗教支配に対する意欲が強く、スコットランド王時代には3名の主教を自ら指名していた。