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大いなる流れ~英国史の宗教改革から革命へ(3)

「ジェームス王はハンプトン・コート会議で【主教なくして国王なし】と絶対的に結論づけた。 

 ご覧の通り、最近それが彼の予言に従って起こったのである。
 国家を支えるのが教会であり、統治を強めるものは宗教である。
 一方を揺り動かせば、他方が倒れる。
 宗教ほど人の心に根を下ろしているものはない。ひとたび人心が宗教を疑い出せば、その他あらゆる関係が破綻し、暴動と騒乱だけを見いだすことになる。
 それゆえ教会と国家は相互に支援、援助しあっている。どちらかが変化すれば、他方は確たる基礎 を持ち得ない」
(主教ゴッドフリー・グッドマンの言葉 1656年)

 1604年、バンクロフトはジェームス1世を通して、1つの教令を発動させる。
 それは女王エリザベスの時代の矛盾点を是正し、英国国教会の王権と議会からの独立を宣言したものだった。
同時にあらゆる聖典礼式から独立派ピューリタンを追放し、独立派ピューリタンが混じっている事を通報しなかった者にも罰を科すものだった。
 この法令は議会には通されなかったが、下院が反対した。

 下院はジェームス1世に対して、こう進言した。

「英国王が宗教を改変する、あるいは議会の同意なしに宗教に関する法を定めると申し上げる者がいるとしたら、それは陛下に誤りをお教えすることになります。」

 下院は教令のうち、一般信者の生活や財産、自由に関する制限を撤廃しようと、23ヶ条をピックアップした。
 しかし貴族院内の主教の票によって、否決に追い込まれた。
「議会によって承認されなければ、教会法は一般人に拘束力を持たない」という見解が生まれたのは、1640年以降のことだった。

 現代の歴史家であるコリンスンは、バンクロフトのやり方を「アメリカのマッカーシーによる赤狩り」に例えている。
 バンクロフトは前述のノウルズ卿の孫娘ペネロープが、リッチという、夫がいる身であるにも関わらず、別の男性と同棲して離婚を申請したのに対し、夫リッチが独立派ピューリタンであったので「激しく非難する」一方、不倫妻ペネロープの犯した罪など、「それにくらべれば微罪」として離婚を許可、それを聞いたジェームス1世は激怒してペネロープと不倫相手との再婚を禁じた、というエピソードが残っている。

 しかしバンクロフトが亡くなると、独立派ピューリタンに対する敵視もやや弱まった。
 ジェームス1世の代の主教達は、禁じられていた聖書解釈研究会を単なる「研修会(Exercise)」と称して再度許可している。
 それでも独立派ピューリタンVS英国国教会(特に主教制度)との隠れた対立は悪化していき、ピューリタンを支持するジェントリーらと、主教制度に固執する国王ら保守派との溝は深まっていった。
 ついに国王は独立派ピューリタンと対抗するために、カトリックに歩み寄る姿勢を見せる。
 こうして英国は空前絶後の「国王処刑」へと至る革命への道を歩み始めるのだった。

 ジェームス1世に任命されたチェスター主教下におけるランカシャーの説教師は、地獄とは、人間を支配して良心を苦しめるために作り出された妄想に過ぎない、と説法した。
 17世紀に入ると、聖書はたんなる寓話(アレゴリー)に過ぎず、地獄も天国もまた目に見えるどこかに存在するのではなく、人間の内部にあるものだ、という思想が浸透していく。
 もっとも早い時期では1579年、ノーフォークの聖書解釈集会で「新約聖書はたんなる寓話に過ぎない」と語られている。
 1648年ピューリタン革命の最中、ウィンスタンリーなる神学者はその著書「聖者の楽園」の中で、こう語る。

「神は理性である」

 神こそ人間のうちに宿る理性である、という思想は、後世のジャン・ジャック・ルソーの「【一般意志】と類似している。(クリストファー・ヒル)」
 もちろん、ここに至るまでの100年の間、何百何千という人が語り、堆積していった言葉の集大成がこの言葉である。
 時をかけ、論争に論争を重ねてきた思想がピューリタン革命から名誉革命へと続くかと思うと、その思想の広大さと躍動感に感動を禁じ得ない。
         

                   

           参考資料/
17世紀イギリスの宗教と政治 クリストファー・ヒル評論集2 
法政大学出版部
明治学院大学キリスト教研究所紀要第1号
国民契約の成立(1) 飯島啓二 
新版イギリス史 大野真弓著 山川出版社

          

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