大いなる流れ~宗教改革から革命へ~(1)


「神共にいまし、我らに信仰あらば、いかなる人をも閉め出す いかなる門衛も存在しない」
( ウィリアム・ティンダルの言葉 1527年)

 いつの時代であっても支配者にとって、宗教とは支配のためのシステムであった。
 枢密院書記官ウィリアム・トーマスは、エドワード6世に向かってこう語っている。

「宗教とは、社会秩序の最大の支柱である。」
 ホウィットギフト(第73代カンタベリー主教)は女王エリザベスに向かって進言した。
「宗教は人間社会の基礎である。」

 では、その宗教のトップに立つのは誰か。カトリックでは法王を始めとする聖職者達であった。 
一方、「正当派」と称されるカルヴァン長老派は、牧師と一般信者を代表する「長老」とが権力を握り、英国国教会では、最高首長たる国王の任命した「主教」が指導権を握っていた。
 この主教制度こそ、チューダー朝を貫く支配の根本であった。
(長老派は絶えず、この主教制度に取って代わろうと野心を抱いていた。)
 エリザベス朝の説教集「不服従と頑迷な反乱を非難する説教集」によれば、
「すべての王、女王らの統治は神によって特に任命されたのだから、良くも悪くも(平民は)奴隷 がその主人にかしずくように、服従しなければならない。どの統治が良いか悪いかの判断は危険 である。」

 しかし英国国教会の首長となった王は、法王の権威をそっくり引き継ぐ事は難しかった。
 カトリックでは厳正に聖職者と非聖職者(王も含む)との間にボーダーがあり、聖書その他宗教の権威は、そのベールの中に神秘的なものとして隠匿されていたからである。

 神秘な存在にしておく事が、権威を維持していく上で不可欠なのは、キリスト教だけでない。

 日本の皇室もまた同じであろう。中世カトリック社会では、聖書とはラテン語であり、それを読み解釈して教える僧侶が必要だった。聖書とは、ほとんどの人間が読めない神秘の書物だった。

 ところが、その神秘的であるはずの聖書が、16世紀になってお手軽で身近な存在となってしまった。聖書を英語に訳して一般に開放しようという試みは、14世紀に始まっていた。ウィクリフの英語訳聖書(Rillard Bible)を読んでいたロラード派は、法王の聖書独占に反発していた。

 もし14世紀に聖書の翻訳の出版が行われていたら、もっと早く英国の宗教改革が行われていたかもしれない。

 現実には英語聖書は活版印刷とともの流布された。ロラード派聖書が十部単位なら、ティンダル聖書は100部単位で、ジュネーブ聖書は1000部単位で人手に渡っていった。これを機会に、王や貴族以外もこぞって聖書に直接触れ、研究し始めた。
 1525年になって、ルターを始めとするプロテスタント指導者は、ようやくその危険性について自覚した。法王のかわりに、自分たちの聖書解釈が主流になると思いこんでいた。
 特に宗教的指導や聖書解釈は、王の名の下に行われるべきだった。
 ヘンリー8世は、聖書は「自分のような国王達こそ読むべきである」と語った。
 1543年5月、「真実の宗教における進歩の法(Act for the Advancement of the True Religion)」を制定して、身分の低い者および貴婦人が単独でも公式の場でも、英訳聖書に触れること、及び宗教討議に参加することを禁じたが、すでに手遅れであった。
 女性たちは積極的に勉強会に参加し、英訳聖書の内容を研究していったのだった。

 100年後のミルトンは、ヘンリー8世が恐れていた物について、ハッキリと指摘している。
「この世の王達は神の教会を常に本能的に恐れていた。なぜならかれらあの恐れること・・すなわち【自由】と【平等】を賛美しているからである。」
 信者の平等性に最後までこだわったのは、プロテスタントの中でもピューリタン独立派であった。
 ピューリタン系の思想家の多くが、メアリー1世時代に迫害され、大陸に亡命した経験があったために、エリザベス朝初期では、英国国教会からも比較的寛大に扱われていた。

 かれらはジェントリーや都市部の住民に指示され、下院にまで浸透していった。
 宮中においてはレスター伯やウォルシンガムという後援者もいた。
 第72代カンタベリー主教グリンダルもまた、メアリー1世時代に亡命の経験があって、かれらに同情的であった。

 グリンダルは女王エリザベスに向かって「陛下は力ある女王であるが、天に住まわれる神はもっと強力である」と言った。
 エリザベスにとって、平等を打ち出すピューリタン思想は「民衆が命令者になる」恐れを感じ、一般民衆による聖書解釈集会Prophesyingsをやめさせよ、と命じた。
 聖書解釈集会→家庭内礼拝→ピューリタン同士の説法が一般化してしまっては、王政を支える英国国教会が消滅する恐れがあったためである。
 それに対してグリンダルは答えた。

「恐れながら率直に申し上げれば、言われている聖書研究会の禁止には、同意しえない、と言わざるをえません。私が天上の君主に逆らうよりは、地上の君主である陛下に逆らう選択をなしたことを、どうぞお許し下さい」

 エリザベスはグリンダルを罷免しようとしたが、ノウルズ卿から止められた。
「カンタベリー主教が罷免されれば、カトリック勢力の陰謀が再現されるでしょう。」
 主教制度は英国国教会の最高首長である国王の支柱であり、それを罷免することは、最高首長たるエリザベス自身の権威の否定でもあった。
 そこで女王は1583年にグリンダルが亡くなるまで職務停止の処分にした。彼が亡くなった後、後継者にはピューリタンへの敵対心が強いホウィットギフトを指名した。

 第73代カンタベリー大主教ホウィットギフトは、国による聖職者の位階制度を主張して、平民との格差をつけた。その弟子たるバンクロフトは、主教こそ英国内での最高聖職者であると位置づけた。 この事がカトリック的であるとして、他のヨーロッパ諸国のプロテスタントと一線を画し、英国国教会が孤立していく原因となった。

 ホウィットギフトが前任者とは対照的に、ピューリタンの牧師を次々罷免していくのを見て、ノウルズ卿は再び抗議した。
 1584年6月、彼はウィリアム・セシルに宛てて
「以下のような事態は女王陛下の安寧にとっては危険であります。宗教に関わることを枢密院から取り上げ、主教達の裁量に任せてしまうからであります。」
 セシルもまた危機感をおぼえ、ホウィットギフトのやり方に対して、
「まるでスペインの異端審問のようだ」と非難の手紙を送った。
 ところがこの後、宮中の権力闘争の結果、ホウィットギフトはセシル派として枢密院議員となる。
 こうして宮中におけるピューリタンの影響力は低下し、かわりに一般民衆とりわけ農村へと影響力を広げていくこととなる。

 17世紀に入り、アルミニウス派なる思想が誕生するが、16世紀の段階ですでに選民救済の思想を排し、人は信仰ではなく、行動によって救われると説く人々がいた。
「自由意思主義者」であったジョン・ハートは1554年、選民救済思想に反駁する論文を出している。