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月光の王妃/ジェーン・シーモア物語

ハンプトン・コートのアン・ブーリンの門/Wikipedia画像                    
           

ハンプトン宮殿。王妃の居間での出来事である。
数年前まで、この部屋には、最初の王妃キャサリンが座っていた。
今は、国王の愛人だった2番目の王妃アン・ブーリンのものだった。
アンは念願だった王妃の地位を手に入れると、ハンプトン宮殿に自分の名前をつけた豪華な門まで作らせ、栄光の絶頂だった。
しかし、それは過去の話だ。

3年が経ち、今、アンの周囲には暗い空気が淀んでいた。
ヘンリー8世との関係はすでに冷めていて、喧嘩が絶えなかった。
その日もヘンリー8世はアンと口論となり、イライラしながら部屋を出るところだった。

コホンッコホンッ

ジェーンはイスの上で体を曲げて、激しく咳をした。
一瞬鎮まっていた部屋の中で、周囲の視線がジェーンに集まった。

ヘンリー8世がふりかえった。
(まずい!雷が落ちる)
皆が肩をすくめて目をそらした。
「またジェーンだわ…」
「病弱なくせに、宮仕えなんて…」
古株の女官たちが、迷惑顔で囁き合った。

コホンッコホンッ

苦しい咳はなかなか止まなかった。
不意にヘンリーはごつい手を伸ばし、ジェーンの背中を優しく撫でた。
「大丈夫か?」
ジェーンは声を出すだけで精一杯だった。。
「見苦しいところをお見せいたしました。お許し下さいませ…」
ヘンリーは子供のように目尻を垂らして微笑んだ。
「ハンプトン宮殿は寒い。風邪などひかぬよう温かくするがいい」

夕方になり、ジェーンが自分の部屋に戻ると、国王からの届け物があった。
「陛下のプレゼントです。」
ふわふわと軽く温かい、最上級のニットの膝掛けだった。

ジェーンが国王からお声をかけられたという噂は、1日もたたずに宮廷中に広まった。
みなが面白おかしく、焼き餅半分で噂する中、王妃の居室だけはピリピリとした空気が張りつめていた。
ヘンリー8世から冷たくされて久しいアンは、ジェーンを許せなかった。
(陛下から優しいお言葉をいただくなんて…図々しい!)
アンの冷たい視線に晒されて、ジェーンは身が縮む思いだった。

1535年8月、ジェーンは周囲の目に耐えきれず、実家のあるウィルトシャーに帰った。
元々体の弱かったジェーンは、ストレスからくる疲れで高熱を出し、寝込んでしまった。
「体が弱くて困ったものだ。こんな大切な時に…」
「まだ半月あるから何とかなるだろう…」
枕元で兄エドワードとトーマスがボソボソ話し合っていた。

「お兄様たち…どうなさったの?」
ジェーンが薄目をあけて聞いた。
兄のエドワード(後のサマーセット公)が興奮したように答えた。
「もうすぐ父上が帰ってくるぞ!」
ジェーン達の父親ジョン・シーモアは、ヘンリー8世お気に入りの侍従長だった。
「いや、父上だけではない…国王陛下もご一緒だ!」
「どういうことですの?」
「陛下は9月、ウィルトシャーをご旅行なさるんだが、その時、われらの館にお泊まりになるんだ。
 おまえも接待役を務めるのだぞ。さあ、さっそく準備に取りかからねば!」


1535年9月、ヘンリー8世は西イングランド視察の旅の途中、侍従長ジョン・シーモアの館に滞在した。
館中が総出で飾り付けをして国王一行を出迎える中、病み上がりのジェーンも引っ張り出されるはめとなった。
「お父様…私、まだ顔色も悪いし…」
「化粧すればいいだろう。口紅も多めにぬって!」
「でも…私美人じゃないし…」
「バカいうな。陛下はおまえの接待を受けたいとおっしゃっている!断れるはずがなかろう!」

ハンティングの後の豪勢なディナーも終わり、ヘンリー8世は用意された寝室に引き上げた。
そしてジェーンにワインを持ってくるよう、父の侍従長を通して伝えてきた。
ジェーンは白いシルクのドレスに身を包み、月光のさす部屋の中を横切った。
ワインを載せた盆を捧げると、ヘンリーは黙ってグラスをとり、一口啜ってから口を開いた。

「私はずっと前からおまえが好きだった」
ジェーンは驚きに、声を飲み込んだ。
「王妃がキャサリンの時も、アンの時も、おまえは静かに人々の後ろに佇んでいた。
 私が機嫌がいい時も悪い時も、恐れるでもなく慌てるでもなく、いつもと同じように。
 視線があっても、声をかけても、気に入られようとするわけでもなく、いつもと変わらず、佇んでいた。
 まるで初夏の木のように清らかで美しかった。たまに声を出すと、木の葉のふれ合う音のように快かった。
 笑うと、草むらに咲いているスミレのように、おだやかだった」

ヘンリーの口から、女性を口説いているとは思えないほど淡々とした言葉が漏れた。
語りかけているというより、思い出を1人つぶやいているようだった。

「おまえを見ていると、はるか昔失ってしまった心安らかな時間を思い出す。
 この10年、私は何かに取り憑かれていた。人もたくさん殺し、憎しみ合いもした」
そういってヘンリーはやっとジェーンと視線を合わせた。
「私にもう一度、平和な時間を与えてくれないだろうか」
「え…?」
「私の愛人になってほしい」
ジェーンは言葉を失って、盆を床に落とした。

「それはできません。」
ジェーンは震える声で答えた。
「私は静かにそっと暮らしていたいだけなのです。兄や父はそんな私を物足りなく思い、宮中にお仕えする
 よう命じましたけれど、私はここにいたいんです。陛下の愛人など、無理でございます」
「そうか…それなら時間を与えよう。考えるがいい。兄たちも父親も大賛成だった。
 あとはおまえの気持しだいだ…」
「陛下にはアン王妃がいらっしゃいます」
「アンか…」

ヘンリー8世が王妃アンと不仲になった最大の原因は王子が生まれないことだったが、それだけではなかった。
跡継ぎ問題なら、現在アンは妊娠中なのだから、解決する可能性があった。
しかしヘンリーは、アンの気性の激しさや口の悪さに疲れていた。ジェーンの無欲な穏やかさに心惹かれていた。

シーモア家の館で交わされた会話は、またしてもすぐに噂となって広まった。
王妃の視線はますます冷たくなったが、逆に近づいてくる者たちもいた。
ジェーンはどちらも気にしないことにしたが、自分自身の良心の声に苦しめられていた。
悩んで、また熱を出して寝込んでしまった。

かつてジェーンは、最初の王妃キャサリンに仕えていた時期があった。
その時、後に王妃となるアンが、ヘンリー8世に愛されて、キャサリンは苦悩でやつれていった。
(あのキャサリン様の悲しみを思うと、アン王妃様を同じ目に遭わせる気になれない…
 私は悪いことをしている…これ以上国王陛下に愛されてはいけない…。
 もう誰も悲しませてはいけない)

密かに気に病むジェーンの病床に、ある悲報が届いた。
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンが幽閉先で孤独に亡くなったのだ。
公式に哀悼を表すことは禁じられたが、多くの国民が喪に服した。
(1人娘の王女様にも会えず、孤独な死だったという…かわいそうに)
ジェーンは1人同情の涙で枕を濡らした。

それから一週間ほどして、ジェーンはやっと普段の生活に戻った。
そして再びアン王妃の元に行った時、わが目を疑うものを見た。
騒々しいほどの音楽、
酒に酔っているらしい男女の笑い声。
アン王妃は、敵意と軽蔑をあらわす黄色いドレスに身を包み、酒を酌み交わし、どんちゃん騒ぎをしていた。
「いったい何があったのですか」
ジェーンは困惑して、同じく困り顔をした仲間の女官に聞いた。
「今日はキャサリン前王妃の葬儀の日だから、お祝いしているんだそうです」
アンは身重の体なのに、声をあげて笑いながらダンスを踊っていた。


一瞬、ジェーンは気が遠くなりかけた。
「しかたないわよ。だってアン様は、王妃になるまで10年近くも待たされたんだもの」
酔った女官たちが口々にそう言った。
「でもその10年間、死ぬほど苦しんだ人がいるのに…」
ジェーンはつぶやいた。

その日から、ジェーンは強くなった。
いったい自分の良心の痛みは何だったのかと思う。アンは敗者に哀れみの気持ちを持っていなかった。
なぜ自分だけ、アンに哀れみをかける必要があるのだろうか。

ジェーンは堂々とヘンリーの愛を受けようと決意した。今まで頑なに受け取らなかった国王からのプレゼントも受け取り、宝石ならば進んで身につけるようにした。
キャサリンの死を祝うパーティーから間もなく、アンは流産した。またしてもアンとヘンリー夫婦は激しく罵り合った。
ジェーンはいつものように静かに王妃の居室に仕えていた。しかし顔は国王から愛された女の自信で輝き、胸元には国王から贈られた宝石のペンダントが輝いていた。
宝石に気づいたアンは、飛びかかって銀のチェーンごと引きちぎって床に叩きつけた。
しかしジェーンは、静かにアンの顔を見返すだけだった

        

ジェーンはアンが失脚し、反逆罪で処刑された翌日、晴れて国王からの求婚を受けた。
ヘンリーはテムズ川に華麗な船団を浮かべ、ウィルトシャーに向かった。
ウィルトシャーのシーモアの館では、ジェーンが国王一行を待っていた。
以前は嫌々ながらの手伝いであったが、今回は主役だった。
ヘンリーは先頭を切って、早足で館に向かっていった。
玄関先には、かつて初めて愛を打ち明けた日のように、白いドレスに身を包んだジェーンが、人々に囲まれて静かに待っていた。

「待たせたな」
ヘンリーは手を差し出した。
「いいえ」
ジェーンは首をふって、手に手を重ねた。
「すぐにロンドンに帰って、王妃として戴冠式をしよう」
と言うヘンリー8世に、ジェーンは穏やかに答えた。
「ロンドンは初夏で、悪い病が流行していると聞いています。お祝い事よりも国民を救うことを優先なさいませ。
 冠があろうと無かろうと、私が王妃であることに変わりありません。たとえボロを来ていても、陛下の妻で十分です」
ヘンリー8世に異存はなかった。
6月30日、2人は身内だけに見守られて結婚式をあげた。


王妃となったジェーンは宮廷にもどると、王室に平和な時間を与えることに専念した。
過去を払拭するかのように、華やかに宮廷を模様替えし、キャサリン王妃の遺児メアリーや、アン王妃の遺児エリザベスを呼び寄せて可愛がった。
かつてアンを悪く言っていた連中は、嫉妬から、今度はジェーンの陰口をたたき始めた。
「あの気まぐれな王様なら、2年ともたないだろう。子供ができなきゃ、1年でポイだ」
ジェーンはそれでもかまわなかった。一時期だけでも宮中の平和が訪れて、満足だった。

結婚から一年後、ジェーンの妊娠が公表された。ロンドン中が、文句なしの祝いで沸き立った。
その頃からジェーンはまた、連日咳をするようになった。苦しげに咳こんではぐったりしてしまう。
ヘンリー8世は、ジェーンが王妃として張り切りすぎているせいだ、と苦笑しつつ、お腹の子のためにも大人しくするように、と声をかけた。けれどジェーンは具合の悪さを吹き飛ばすように、王女たちと真冬のテムズ川でソリ遊びを楽しんだ。

1537年10月12日、ジェーンは難産の末に男の子を産んだ。後のエドワード6世である。
3日後、王子の洗礼式が行われることになった。
ヘンリー8世の祖母/マーガレット皇太后の決めたルールによれば、王妃たるもの、全ての重要な行事に参加すべきだった。
周囲はジェーンの体力ではとうてい無理だと助言した。
しかしジェーンは出席したい、と主張した。
「洗礼式は、お産をしたハンプトン宮殿の中にある礼拝堂で行われます。だいじょうぶだわ。」

ヘンリー8世は、ジェーンの負担にならないよう、赤いソファーに横たわったまま礼拝堂に運ばせた。
松明と蝋燭のきらめきの中で、新生児の王子は「エドワード」と命名された。
ジェーンは満足そうにわが子が祝福される様子を見守っていたが、やがてソファの上で意識を失った。
高い熱だった。医者は必死で治療にあたったが、衰弱はますますひどくなっていった。

「聞こえるか、ジェーン、聞いておくれ」
遠く、はるかに遠くからヘンリー8世の声がした。
「おまえは、どんな悪い噂でも気にしなかった。聞こえないふりをした。本当は心を痛めていたんだろうに…
おまえはキャサリンにもアンにも優しい気持ちを抱いていた。だが、アンにはそれが伝わらなかった。
アンの死は、決しておまえのせいではない。私の責任だ…」

ジェーンは首をふるだけの力はなかったが、心の中で答えた。
(いいえ、悪くいわれるのは覚悟の上でした…何をいわれても気になりません)
「私は一生おまえのことは忘れない。愛している、私のフェニックス…愛の不死鳥よ
おまえが元気になってくれるなら、私は今すぐこの幼いエドワードに王位を譲って隠居してもいい…生きてくれ」
(ありがとう…)
ジェーンは重くて開くことのできない瞼の下で、見えない涙を流した。
(エドワードを立派に育てて下さい。2人の王女、メアリー様とエリザベス様にも優しくなさってね。)
ジェーンの右手が微かに動いた気がした。ヘンリーが握ると、その手はみるみる冷たくなっていった。


もう一度その顔を見ると、白い頬には皆を祝福するような、おだやかな微笑が浮かんでいた。
                          
                         (完)
もっと詳しいジェーン・シーモア解説

 

               

(ハンプトン・コートにあるヘンリー8世家族の肖像に描れたジェーンの姿)

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