Published by the Irish Heritage Association (アイルランド遺産協会)とhe Royal O'Neill Clan Society(オニール王家氏族協会)の記録によれば、アイルランドのオニール家の起源は、バイキングと戦って倒れたNiall Glundubh(黒い膝)なる族長の名に由来しているという。
何世紀もの間、オニール一族は全アイルランドの王、アルスターの王、そしてティローンの王だった。
そもそもアイルランドはケルトの氏族・ゲール族の国だった。5世紀に聖パトリックの布教により、隣のイングランドよりも早くキリスト教が浸透した。
アングロ・サクソン人がキリスト教会を破壊して回っていた頃、すでにアイルランドでは、小乗仏教の修行僧を思わせるような厳しい修行と博愛の精神によって、ケルト教会と呼ばれる宗派を確立し、イングランドはもとよりヨーロッパ大陸にまで修道院を建立して歩いた。しかし11世紀に入り、ローマ法王ハドリアヌス4世は、ヘンリー2世に対し、アイルランドの領有を許す代わりに、カトリック支配を確立するよう勅許を出した。しかし征服したはずの英国人はいつしかアイルランドの土地と風俗にとけ込み、英国系アイルランド人なる人々を生み出したのだった。
だが、そんな融合の歴史は16世紀に入って一変する。
チューダー王朝は英国系アイリッシュ貴族殲滅に乗り出した。ヘンリー8世は5万ポンドの巨費を投じて武力制圧した後、1536年英国国教会の支配を押しつけた。続く1541年、アイルランド全土は国王の所有となり、改めてそれをアイリッシュ貴族に下賜するという「領地献上の上再授封」の政策が取られたのである。
Tyrone ティローン。北アイルランドの中央に位置するこの土地はネイ湖を有し、緑美しい土地である。
1541年、英国は時のオニール当主コオンをティローン伯に封じた。
しかし彼は英国の圧力に屈して、後継者を正妻の子であるシェーンではなく、庶子のマシューに譲ったことから、深刻な一族間の争いが起こった。
その結果シェーンはマシューとその長男を殺害し、アイルランドでの覇権を握った。
(ティローンの乱以前のエピソード)
シェーンの父コオンは、アイルランド南部の反乱の鎮圧に助力した功績により、英国からDungannon伯に再授封された。 それが他のアイルランド貴族の反発をまねき、かねてより宿敵であったオドネル一族との対立が激化した。
ましてコオンがオドネル家と近しい長男シェーンではなく、英国の息のかかった庶子マシューを後継者にしたことから、シェーンは反発、1558年異母兄マシューを急襲してその長男ブライアンもろとも殺害してしまっった。
1559年、父の死後、シェーンは英国にアルスター王位とティローン伯の爵位を要求した。
1562年1月、女王エリザベスは嫌々ながらシェーンのアルスター王位継承を認めるが、間もなくサセックス伯に命じて討伐軍を送った。
しかし三回に渡って戦いながらも敗北し、ついにはサセックス伯は更迭された。
エリザベスはシェーンと一時的な和平協定を結んだ。一方その頃アイルランド内部では、シェーンとマクダネル一族との抗争が激化し、アルスターは戦場と化した。
英国側はワインに毒を盛るなど、何度となく暗殺を試みたが失敗している。
そこで英国は、1567年ダブリンへの安全な通行を条件に、マクダネル家の少年当主とサセックス伯の妹との縁談、及び敵対するマクダネル一族とシェーンの和解をもちかけた。
そのレセプションに出席したシェーンは、杯を酌み交わしている最中に暗殺された。
首はBallyteerinの村から1キロ離れた地点に埋められたが、英国兵の手で掘り返され首はダブリン市中に晒されたという。
(「ティローンの乱」の表紙を飾るヒュー・オニール)
一方シェーンに殺害されたマシューの末子ヒューは生き残り、英国のシドニー卿に引き取られ、エリザベス女王の宮廷で英国人として育てられることとなった。
1568年、英国側の手で会席中にシェーンが暗殺されると、ヒューは帰国を許され、改めてティローン伯の地位を継承した。
英国側は、自ら育てたヒューが、「御しやすい男」だと計算していた。
しかし、それは大きな誤算であった。
1588年、スペインの無敵艦隊が英国に敗れた後、アイルランド沿岸を航行中に多数の船が難破した。エリザベスは海岸に漂着したスペイン兵を「見つけしだい殺せ」と命じた。そのため、同じカトリックであるにもかかわらず、多くのスペイン人が英国を恐れたアイルランド人の密告によって処刑された。
しかしヒューは自領に流れ着いた600人を密かに保護した。スペイン兵は船に積んでいた武器弾薬をヒューに提供したという。
アイルランド各地が英国の武力支配下にあった。Connachtでもマンスターでも反乱が鎮圧された。しかしティローン領、アルスター及びネイ湖付近は森林も多く土地を起伏に富んで防衛に適している上に、英国軍のいない空白地帯であった。
ヒューはまずダブリンで捕らわれていたオドネル当主レッド・オドネルを救出し、長い間対立関係にあったオドネル家を味方に引き入れた。オドネル家に続きMacDonnellsO'Reillys、MacCartans、Magennises、O'HanlonsおよびO'Dohertysら各氏族もヒューに忠誠を誓った。
ヒューは1576年最初の妻を離婚した後、二度目の妻がありながら、在アイルランド英国軍指揮官ヘンリー・バグナルの妹メイベルを誘惑したあげくの果てに捨ててしまった。
そのため、個人的にも英国軍との緊張関係が高まっていた。
1595年、ヒューはMonaghanでヘンリー・バグナルと衝突、これを大破した。
エリザベスは何とかスペインとの和平を成立させ、アイルランドへの介入をやめさせようと試みるが、うまくいかなかった。 ヒューはさながらエリザベスをあざ笑うがごとく、話し合いに応じたかと思うと、英国側の隙を突いて急襲した。
1598年6月、ヒューはイエローフォードで英国側を大破した後、休戦協定を破ってブラックウォーター要塞を包囲した。
同じ年、アイルランド総督バーラー卿が死に、ダブリンは混乱に陥っていたが、エリザベスはなかなか後任を指名できずにいた。 ブラックウォーター要塞の包囲を解くために、再びバグナルはヒューに戦いを挑んだが、戦死してしまった。
エリザベスは、ついに後任に寵臣のエセックス伯を指名、1599年4月、新総督はダブリンに到着した。しかし彼は各地の小ゲリラ戦に振り回され、3ヶ月で兵の2分の1を失ってしまった。ズルズルとアイルランドに居続けたエセックスは、エリザベスの厳命のもとに、ようやく動き始めた。9月、ようやくヒュー本隊と遭遇し、あわや決戦かと思われたが、不思議とヒューは攻撃を仕掛けるどころか、6週間の休戦を申し込んできたのである。ヒュー側が不利だったからではない。
事態は逆だった。戦えば、ヒュー側が勝ってもおかしくなかった。
にもかかわらず、両者は川の中州に乗り上げて話し合い、休戦に同意した。
この命令無視の振る舞いにエリザベスは激怒、結局勝手に帰国したエセックスを待っていたのは、総督の地位剥奪と官職からの追放だった。
逆切れしたエセックスはクーデターを企てるが失敗し、ついに1601年2月25日に処刑された。
後任者のマウントジョイは、うってかわってヒューに猛攻撃を仕掛けた。
1601年9月、ヒューの側にもスペインから援軍が到着した。
両軍はキンセルにて衝突し、英国軍がアイルランド・スペイン連合軍を大破した。
反撃のために南下したヒューは、同年12月再び英国軍に破られた。
ヒューらは本拠地のアルスターに撤退して体勢を整えるとともにスペインからの再度の援軍を待ったが、マウントジョイの攻勢はやまなかった。
彼の背後には、「今度こそティローン伯を討ち取れ」とのエリザベスの厳命があった。
1601年12月、ヒューは休戦を申し出るが拒否され、翌1602年3月、ついに英国側に降伏を申し出る。
しかし同月24日、ヒューを倒すことに執念を燃やしていたエリザベスが崩御した。
しかしそれを知らないアイルランド各氏族は、ヒューに続いて次々投降した。
ヒューは翌4月、ダブリンにてエリザベス死亡の事実を知り、悔し涙を流したという。
しかし全ては手遅れだった。ヒューは次期王ジェームス1世に臣従を誓った。
英国はヒューへの警戒を解かなかった。1607年、英国は突如ヒューをロンドンへと召喚する。陰謀を察知したヒューは、9月アイルランドから逃亡し、フランドルに渡り、最終的にローマに落ち着いた。ローマ法王は終生ヒューに年金を与えて住まわせた。
1616年7月20日、ヒューはローマの地で遂に故郷へ帰らぬまま没し、サンピエトロ寺院の一角に葬られた。
最後まで「静かな暮らしがしたい」というのが口癖だったという。
参考資料
Flight Of The Earls By 1999-2003 irelandseye
Published by the Irish Heritage Association
the Royal O'Neill Clan Society
The O'NEILL Family of Co. Cork, Ireland
Tyrone's rebellion begins 1594 - 1597 By SATURDAY
1st November 2003 BBC Homepage
概説イギリス史 今井宏編 By 有斐閣選書
エリザベスとエセックス By R・ストレッチャー