「ブリトン族の貴族は頬ひげは剃るが、口ひげは剃らない。従って口ひげは口を覆う。かれらが食事をする時、ひげは食い物にまとわりつく。飲むときは、飲み物は、あたかも濾過されるがごとく、ひげを通して口の中に入る。」

 AD1世紀のローマの記録によれば、ケルト系ブリトン人(古代英国人)は長い口ひげを生やし、馬を二頭並べた戦車で疾駆し、槍を投げて戦ったという。

 紀元前54年、ジュリアス・シーザーは、敵ゲルマン族と通じるブリトン族を討つため、初めてブリタニアに上陸した。
 その後、クラウディウス帝が全ブリタニア征服のために大軍を率いて来たが、西部では族長カラタクス率いる部族が、東部では女王ボアディケア率いるイケニ族の激しい抵抗にあった。

 一方カレドニア(古代スコットランド)のピクト族は、最後までローマ相手に戦った。
 AD2世紀、ローマ側はカレドニア征服を諦め、ピクト族の侵入を防ぐために「壁」を築いた。「ハドリアヌス帝の長城」である。
                         
 カレドニア以外のローマ支配地域では、ローマ行政区「キウティス」の一部として貢ぎ物や税の義務は負うものの、ブリトン人による自治も認められた。

 ローマはピクト族の侵攻に備えるために、かなりの軍勢をブリタニアに駐屯させた。
 今も残るマンチェスターやランカスター、グロスター(chester,caster,cester)などの地名の語尾は、ラテン語で「軍隊駐屯地」を示す「castrumカストルム」が語源である。
 ブリタニアにはローマ風の都市が80以上も建設された。それらの都市はウォトリング街道を初めとして、網の目のような公道で結ばれた。
 それらは今もローマ郊外で見ることのできるのと同じ、石畳の道だった。

 英国にあるローマ時代から続く街で、もっとも著名なものといえば「風呂(バス)」の起源ともなった世界遺Bath(バース)だろう。1880年の発掘調査によると、バースの大浴場は、貯水槽や浄水システムまで完備していたという。

 他のローマ浴場と同様に、ここでもサウナや冷水プール、運動場があった。
 植民地で生まれたローマ人や、半ばローマ化したブリトン人達は、本国に劣らない施設で蒸気サウナに入り、その後温水につかり、あるいは冷水プールで泳いだ。
 脱衣所には鮮やかなタイル貼りの床があり、アテナ女神神殿に隣接していたところから、リゾート施設であるのと同時に、祭礼のため身を清める場所でもあったようだ。
 一汗流した人々は、付属する運動場で皮袋に綿を詰めたボールで、現在のバレーボールに似た球技を楽しんだり、また個人でトレーニングなどを行った。

 風呂の他にも、オリーブ油やワインが持ち込まれ、ブリタニアからは猟犬や奴隷、穀物などが出ていった。
後世英国の特産となるニットも、すでにこの時代から輸出されていた。羊の畜産は、古代ローマからブリトン人の生活手段だった。
                          
 しかし、その平和もローマ帝国自身の基盤が弱まるにつれ、終わりに近づきつつあった。
 AD4世紀、コンスタンティヌスがブリトン駐屯ローマ軍によって皇帝に推挙された。
 彼は分裂していた帝国を再度統一し、キリスト教を国教と定め、大帝と呼ばれた。
 しかし強力な軍団が大陸に去ったことにより、東からはピクト族、サクソン人などが長城を越えて侵攻した。

 防衛の弱体化と外部からの侵略に加えて、重税もまたブリトン人を苦しめた。
 ゲルマン人との戦いに備えるため、兵糧として毎年大量の穀物がライン河方面へと運ばれたという。それは「敵の方が徴税人よりまだ情けがあった」と言わしめるほど過酷なものだった。
 しかしAD410年、西ローマ皇帝ホノリウスは、事実上ブリタニア放棄を宣言した。
                          
 ローマ帝国支配が終わった後、ブリトン人はゲルマン民族大移動の波に流されるように、大陸へ渡った。フランスのブリターニュとは、「小さなブリトン人の地」という意味である。

 ブリタニアに残ったブリトン人は、新たな民族と遭遇することとなる。
 ゲルマン大移動に伴って、アングロ・サクソン人が海を渡ってきた。
 伝説によれば、カレドニアからの侵略に悩んだブリトン族長がアングロ・サクソン人の傭兵隊を呼んだところ、かれらはブリタニアに定住し、しだいに勢力を広げて、ついにはブリトン人を凌駕するほどになった、という。

 アングロ・サクソン人もまた、ローマ人同様ブリタニア全土の支配を目論んだ。
 491年、ペヴェンジーに上陸したサクソン軍は、その地方一帯のブリトン人を皆殺しにした。次々と攻撃を受けたブリトン人は都市を捨て、アイルランドやブルゴーニュ地方へと落ち延びていった。
                           
 しかしAD5世紀半ばに出現したアルトリウスがブリトン人を統率し、バドニックスの戦いでアングロ・サクソン人を敗った。そのため激しかった侵略は一時的に休止したという。その史実が後世、アーサー王伝説となリ、吟遊詩人らによって語り継がれることになるのだった。

 アーサー王伝説の中でブリトン人は『白い龍』アングロ・サクソン人は『赤い龍』と称され、両者の戦いは『コーンウォールの猪が赤い龍を踏みつぶすまで』終わらない、と語られている。
 ケルトの族長アルトリウスは、コーンウォール出身だったのかもしれない。

 しかし波状的にアングロ・サクソンの攻撃は続き、それと平行してブリタニアに定住する者も増えた。結果として7世紀の初め頃・・日本では飛鳥時代頃・・・には、ほぼ全域に渡ってアングロ・サクソンの支配が定着してしまった。
 と同時にケルト系ブリトン人とアングロ・サクソンの通婚・混血化が進み、現在の英国人の基礎となったのである。