チャールス2世/T・ホーカー作/ナショナルポートレートギャラリー蔵
絶大な指導力とカリスマを持ち合わせたクロムウェルが死んだことで、議会と軍部の対立は、さらにエスカレートしていきます。
軍は,2代目護民卿となったリチャード(クロムウェルの長男)を無視して暴走、1659年議会を議会を解散させ、その一月後にはリチャードを護民卿の地位から追い落としました。
比較的軍に近い議員のみを残して再スタートした議会でしたが、士官の任命権をめぐって再び軍と対立・・・・かつてクロウェルの腹心であったランバートが軍事独裁を始めたことで争いは収拾したかのように見えました。
しかし今度は軍の内部分裂が始まり、スコットランド方面軍司令官(注1)が議会側に寝返ります。
軍同士の戦いの結果、ランバートは破れて国外逃亡。ここで完全に革命は終止符が打たれました。
注1)スコットランド方面司令官
ランバートと敵対していたモンク将軍は、当時スコットランド方面総司令でしたが、1660年議会に対する忠誠を宣言し、ロンドンに進軍してランバートを破っています。軍部の指示をえた議会では王党派が復活し、王政復古への道が開かれました。
いよいよチャールス2世の復活です。彼は1651年、英国本土上陸を決行して、ウースターで手ひどい反撃を受け、危ういところを樹上に身を潜めることで逃れたという経験の持ち主でした。
1649年、父の処刑を知った時には、「おまえたちの要求は無条件で飲む。だから父の命だけは助けてくれ!」と、クロムウェルに白紙委任状を送って拒否されています。
それだけに、革命派に対する復讐心は強かったのですが、混乱を避けるために帰国直前の1660年4月、「ブレダ宣言」(注2)なる布告を出しました。これは国内での元革命派に対する恩赦と信仰の自由、軍隊への未払い給与の精算を約束したものでした。
注2)ブレア宣言
1660年4月、チャールス2世は腹心ハイドを通し、英国民に向けて次のような宣言を行っています。
「私の恩寵と愛顧を受け容れる臣民には位階、身分を問わず一般的な大赦を与える。朕は良心の自由を宣言する。土地の譲渡・売却・購入に関する争い、およびそれらに関する事柄は、議会で決定されることを朕は希望する。モンク将軍指揮下の軍隊の将兵が受け取るべき未払いの給与を完全に支払う為の法律に同意する用意がある。」
しかしチャールスのもとで再出発した議会は「騎士議会」と呼ばれるほど王党派議員ばかり。
ブレア宣言などそっちのけで、英国国教会に刃向かうピューリタンを迫害する「クラレンドン法」注3)や、カトリック信者を公職から廃除する「審査法」(注4)など、信仰の自由を否定する法案ばかりが生み出されることになります。
しかしチャールス2世はカトリック信者の自由を固持して譲ろうとはしません。
実はチャールスは、カトリック国であるフランスに大きな借りを作っていたのです。
1670年、秘密裏にとはいいながら、正式にフランスと、カトリック復活の約束(注5)を交わしていました。
しかしチャールス自身はカトリック信者だとは明言しませんでした。
一方弟のジェームス(後のジェームス2世)は明らかにカトリック信者でした。
議会はさっそくジェームスの即位を阻もうと動き始めます。
1679年、王位継承廃除法案を成立させようとしますが、チャールス2世が拒否権を発動して反対、議会を解散させます。
それに対抗して議員たちは選挙区から議会招集の請願書を出しました。
しかし議員の一部はそうした行為は、王子に対する不敬だとして反対しました。
のちにこの「反対派」をトーリー、「賛成派」をホイッグと呼ぶようになりました。
といっても自ら「俺はホイッグだ」「トーリーだ」と名乗ったわけではありません。
というのも、「トーリー」とは「アイルランドの無法者」、「ホイッグ」は「スコットランドの反逆者」という意味だからです。
お互いに罵倒しあっているうちに、いつの間にか渾名が定着してしまったのでした。
チャールス2世は議会の分裂を利用して、自分と弟に逆らうホイッグ党を攻撃しました。追いつめられたホイッグ党の一部はクーデターを計画しましたが、1682年発覚して首謀者はオランダに逃亡、翌1683年には国王暗殺計画が持ち上がりますが、これもまた発覚してホイッグ党員4名が逮捕、処刑されています。
さて寛容宣言などで、信仰の自由を訴えていたチャールス2世でしたが、審査法が成立してしまうと、いつまでも議会と対立しているのでは不利だと思ったのか、手のひらを返したように議会にすり寄り、ホイッグ党を味方につけます。
しかしこの裏切り行為に怒ったカトリック信者の間では1678年国王暗殺計画がありましたが、やはり失敗しています。
当初は「こんなに歓迎されるなら、もっと早く帰るべきだった!」とはしゃいでいたチャールスでしたが、蓋を開けてみると、議会にはホイッグ、外にはカトリックと、命を狙う輩が絶えませんでした。
それでもチャールスは父の二の舞を踏まないように、なるべく政治介入を避け、そのはけ口を女遊びへと向けたのでした。
今残されたチャールス2世の肖像画は、酒と女に爛れきったペテン師の中年男といった感じで、その締まりのない容貌は、とても王者とは見えません。
しかし後世にいかに醜態を晒そうが、とにもかくにも50年の天寿と王位を全うしたことは、一つの生き方だったと思わざるをえません。
注3)クラレンドン法
クラレンドン法は4つの法案の集合体です。
第一の「地方自治体法」では、地方公務員が英国国教会のやり方で儀式を受けることの義務化。
第二の「礼拝統一法」では、聖職者・学校教師で英国国教会の指導書を用いない者は、その地位から追放されることを合法化した内容。
第三の「宗教集会法」では、隠れピューリタンを取り締まるために、英国国教会以外の宗派で5名以上の集会の禁止。罰則は流刑。
第四の「5マイル法」では、追放された聖職者・学校教師は、その後元の場所の5マイル以内の接近の禁止。
こうして英国国教会のライバルである独立派・長老派などのピューリタンは徹底的に迫害され、希望を新天地であるアメリカに向けることになりました。
注4)審査法
「文武の官職につく者は、全て国王至上権を認め、忠誠を尽くす誓いをしなければならない。上記官吏は、英国国教会の慣例に従ってミサを受けねばならない」
審査法が成立したことで、王弟ジェームス(後のジェームス2世)は海軍大将の地位を退き、チャールス2世の側近であったクリフォード、アーリントンらも辞職せざるをえませんでした。
注5)カトリック復活の約束
ドーヴァー密約。英国王は適当な時にカトリック信者であることを宣言し、フランス王はそれに対してカトリック援助のために200万ルーブルを支払い、六千名の軍隊の派遣を約束。さらに英仏共同でオランダに宣戦布告し、戦費とし300万ルーブル支払う、という契約がなされました。