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モンマス公/ゴッドフリー・ネラー作/ナショナル・ポートレートギャラリー蔵

  
 1685年チャールス2世が没して、予定通り王弟のヨーク公がジェームス2世として即位します。
 彼はフランス王女だった母のやり方を受け継ぎ、カトリック信者でした。

 それを不服に思ったチャールス2世の庶子・モンマス公ジェームス・スコットが、反旗を翻し、同年6月、150名の兵士とともにプリマスに上陸しました。モ ンマス公は、自分こそ正統な王である、と宣言しますが、ほとんど支持されることもなく、あっさり国王軍に敗れ去りました。

 7月15日、ロンドン塔の前で、モンマス公は処刑されます。
 その時の様子を、ホーンという人物がTable bookという本の中に書き残しています。

「モンマス公を担当した死刑執行人は、格別仕事が下手だった。公は執行人に言った。『この6ギニーはおまえにやる。頼む、うまくやってくれ。ラッセル公 (注1)の時には3、4回も滅多打ちしたそうじゃないか。そんな目にあうのはごめんだ。召使いに残りの金を渡しておく。首尾良くやったなら、そちらも受け取るがいい』公は斧の切れ味を確かめて、『今ひとつだな。』(中略)執行人はいよいよ仕事にとりかかった。公があれほど注意したのが、かえって裏目に出てしまった。気が動転している執行人が最初にふりおろした斧は、首をかすっただけだった。公は顔をあげて執行人をにらみつけた。
 さらに二回、斧が振り下ろされた。が、首を切断するまではいかず、公は血の中でうめき声をあげていた。とうとう執行人は斧を放りだし、『だめだ、俺にはできない!!』と叫んだ。しかし気を取り直して斧を拾い上げ、さらに二回振り下ろして、ようやく首を切断した。」

注1)ラッセル公
1683年、チャールス2世暗殺計画に連座して処刑される。この時も処刑人はモンマス公と同じジャック・ケッチ(?~ 1686)でした。ラッセル公の首を切り落とせず、数回斧を振り下ろしたが、うまく切断できなかった、と伝えられています。


 反乱に懲りたジェームス2世は、6000名だった国王軍を一気に三万名にまで増強します。
 さらに異端審問として議会が廃止した、高等宗務裁判所を復活させました。

 と同時に、英国国教会以外の人間が公務に就くことを禁止した『審査法』を退け、大々的にカトリック信者を取り立てます。
 そして『信仰寛容宣言』を英国国教 会で読みあげるよう命令します。英国国教会の主教達は、今まで国王にひいきにされていたからこそ協力してきたのであって、皆が平等とあっては協力するつも りはない、とそっぽを向きます。一方カトリック信者も、せっかく他の宗派と共存してやっているのに、下手に肩入れされ、風当たりが強くなるのではない か・・と不安をおぼえました。

  そっぽを向いた主教たちは、反逆者として逮捕されたものの、間もなく開放され、歓呼のうちにロンドンに戻ります。
 そんな対立の中、ロンドン郊外に駐屯する1万3000の国王軍が無言のうちに、市民を威圧していました。

 それでも人々が楽観的でいられたのは、ジェームス2世の跡継ぎであるメアリーとアン王女が2人とも熱心な英国国教会の信者だったからでした。もう少し我慢してさえいれば、安定した女王の治世が望めたのです。

 最初の王妃アン・ハイドが亡くなった後、ジェームスはイタリアの名門エステ家からメアリー・オブ・モデナ(注2)を、二度目の王妃に迎えていました。

注2)メアリー・オブ・モデナ
イタリアの名門エステ家のモデナ公アルフォンソ4世の娘、本名をマリア・ベアトリーチェ・デステといいます。


 メアリーは4人子供を産みましたが、いずれも早世しています。
 ところが1688年、再び王妃に懐妊の兆しが見えました。議会は王妃が本当に子供を生むのかどうかを確認するために、人々の立ち会い出産を求めました。

 この時始まった王妃の公開出産は、なんと現エリザベス2世の誕生時まで続き、エリザベス2世自身が廃止することで、ようやく終わりになったそうです。

 立ち会い出産で生まれた子供は、議会が恐れていた通り、王子でした。
 王子はやがて皇太子となり、父ジェームス2世同様、カトリック路線を選ぶでしょう。

 議会はまたしても国王と反目するはめに陥ったのです。あの時は、クロムウェルという強力なリーダーがいたため、王制そのものを否定するパワーが必要でした。しかし、今回はそんな手間はいりません。首をすげかえればよいのです。
 今回議会は、メアリーとアンという二枚の強力なカードを持っていました。
 特にメアリーと、その夫であるオレンジ公ウィリアムは議会にとって心強い味方になるはずでした。

 1688年6月30日、議会はトーリー党3名、ホイッグ党4名の連名で、オランダにいるウィリアムに書状を送りました。

「我々は日増しに悪い状況に陥り、自らの立場を守ることさえことさえ困難になっております。人民はその信仰・財産に関して、政府のやり方に満足しておりません。20名の人民のうち、19名までが変化を欲しています(中略)我々は殿下が上陸される際にはかならず殿下のもとに馳せ参じます。」
 この要請を受け、同年11月ウィリアムは1万2000人のオランダ軍を率いて上陸し、翌年2月、議会はウィリアムとその妃であったメアリー王女を国王として認め、ここに「名誉革命」と呼ばれるクーデターの成功を見たのでした。
         

ジェームス王子/スミス作/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
 

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