チャールス1世/ヴァン・ダイク作/ルーブル美術館蔵 

 英国支配を企む長老派にとって、野心家クロムウェルは目障りでなりません。軍隊内に強い影響力を持つ平等主義派を対抗馬としてクロムウェルと戦わせるべく、捕らえられていたリーダー・リルバーンを、わざと釈放しました。
(これであいつらは、いがみ合って分裂するに違いない・・ 共倒れしてくれたらなおけっこう!) 
 この動きに、ほくそ笑んだのは長老派だけではありませんでした。チャールスもまた、チャンスを見逃しませんでした。 
 1647年、彼は監禁されていたハンプトン・コートを脱出し、ドーヴァー海峡に浮かぶ小島ワイト島を拠点に、抵抗運動を始めます。 チャールスの呼びかけに応じ、ウエールズ地方、エセックス州、ケント州で王党派が挙兵したのを始め、スコットランドからも王党軍が侵攻し始めました。この危機を前に、平等主義派リーダー・リルバーンは予想外の動きを見せます。 
 長老派やチャールスの期待を裏切って、クロムウェルに全面協力したのでした。 
 これで力をえたクロムウェルの復讐が始まりました。鉄騎兵隊が各所で敵を撃破し、ついに1648年、ヨークでチャールス自身を捕らえました。
(朕はどこまでも抵抗してやる!死ぬまで戦い続ける!) 
 そう叫ぶチャールスを前に、クロムウェルはある決断を下さざるをえませんでした。
(この男を生かしておく限り、戦いは終わりを知らない・・・) 
 終わりなき戦乱に終止符を打つためにも、どちらかが死なねばならない。 
 万が一彼が復位するようなことになれば、死ぬのはクロムウェル派の方なのです。 
 チャールスは、なおも一切の妥協を拒み、火花散るような視線で睨み返すばかりでした。
(死ね、チャールス) 
 クロムウェルの行動は迅速でした。国王処刑に反対する長老派を一斉に逮捕し、特別法廷を開かせます。
 始めから、チャールスを殺すための茶番劇でした。 135名いた特別法廷の判事は半数が拒否、実際裁判に関わったのはわずか59名(注1)でした。
注1)わずか59名王の処刑に関わった高等法院判事を「regicides(国王殺害者)」といい、うち王の処刑令状に署名したのはクロムウェル、検事総長ブラッドショウを始めとする59名。王政復古時には41名が生存していたが、30名は大赦の例外とされ、うち15名は国外逃亡、13名は囚われて復讐的裁判によって処刑されています 1649年1月、シナリオ通り、「国家に対する反逆者として」死刑を宣告。 
1649年1月29日、処刑前日。チャールスは英国に残っていた幼い2人の子供達との面会を許されました。
 次女エリザベス(13歳)と3男ヘンリー(7歳)です。チャールスは子供たちを抱きしめ、「フランスにいる王妃に伝えておくれ。朕はおまえのことだけを想い、案じていた、と。姉弟仲良く暮らせ。」
 そして初めて、自分に課せられた運命を恨む言葉を口にしました。
「ヘンリー・・お前の2人の兄たちは、朕の跡を継いで王になるのはやむをえまい。しかし、2人は捕らえられれば処刑される。おまえだけは、王になどなるな。王になれば殺されるだけだ・・・。」 
 チャールスは首にかけたガーター勲章以外の宝石をすべて子供達に渡しました。宝石といっても、転戦の中で壊れ、砕けた破片ばかり。そしてもう一度2人を強く抱きしめると、永遠の別れを告げたのでした。 

 英国の冬の朝は遅く、9時近くまで日が昇りません。ようやく朝日が隅々まで明るく照らした10時、チャールスは監禁先の聖ジェームス宮から処刑場のあるホワイト・ホール前へと徒歩で向かいました。
 「今日は厚着する」
 チャールスは出発前、そう語りました。
「寒さで震えでもして、恐れて震えているなどと思われては困るからな。朕は国家の殉教者として死んでいくのだ」 
 チャールスは雄々しく処刑台に登ると、自らの手で最後の宝石だったガーター勲章をはずし、付き添い人に渡しました。 
 そして処刑人(注2)に向かい、「朕が合図するまで待て。いきなり斬りつけるな。」と鋭く命じました。
 「忘れるな!」
 チャールスがそう叫んで、両手を広げて合図したとたん、背後から処刑人の斧が振り下ろされました。 享年49歳。

注2)処刑人実はチャールス1世に手を下した処刑人が誰であったのか、未だに謎とされています。チャールス2世は真相を追求しましたが、結局判明しないまま終わりました。一応リストに上がった者は十数名いました。ウォーカーという兵士、ブランドンなる処刑執行人・・・しかし真相はクロムウェル自身とその秘書スパヴィン、警視総監アイアトンのみが知っていたといわれています

(チャールス1世の処刑。左側の台上・中央で帽子をかぶっているのがチャールス)

 チャールスは最後まで戦う意志を捨てませんでした。
 コソコソ逃げ出すか、座して死を待つだけだったフランス革命のルイ16世と較べると.、コモン・ローという鉄壁に自ら挑んで玉砕したその生き方は、あっぱれと言えましょう。
 しかし予想に反して、他の王国は復讐戦のために動きませんでした。
 この点もまた、フランス革命とは大きく異なります。なぜなら、フランスはフロンドの乱、オーストリアは30年戦争と忙しく、これ以上戦争などできる状態ではなかったのです。