アンリエット・マリー王妃/ヴァン・ダイク作/ナショナル・ポートレートギャラリー蔵
ますます孤立を深める中、さらなる衝撃がチャールスを襲いました。
権利の請願が出た年1628年8月、もっとも信頼していた側近バッキンガム公が暗殺されてしまったのです。
注1)バッキンガム公の暗殺
1628年8月、度重なる年金の遅配に怒ったジョン・フェルトンという傷痍軍人が、肉切り包丁を買い込んで、60マイルの道を歩き、バッキンガムを刺殺しています。
激しい孤独感に苛まれるチャールスに寄り添ったのは、バッキンガム公によって遠ざけられていた妻アンリエット・マリーでした。
アンリエットは積極的に夫を補佐し、軍資金を捻出するために実家フランスから持参した宝石すら売却しました。
しかし、英国人が嫌うカトリック信者のフランス人だったこともあって、議会はますますチャールスを敵視するようになりました。
1641年、議会は王の側近ストラスフォードを圧倒的多数で処刑を決定。
その半年後、ついにチャールス自身も有罪であるとする「起訴状」を突きつけます。
それまで万々歳で一致していた議員たちは、ここで初めて顔を見合わせ、自 分たちが何をしようとしているのか悟ります。 そして「国王起訴状」の発案者であるオリヴァ・クロムウェルの顔を見たのでした。
「国民を怒らせるぞ・・・・」
「私は反対する・・・狂気の沙汰だ・・」
(これは・・これは革命だ!)
初めて議会が割れました。採決の結果は159票対148票。
わずかな差で可決されます。
議員の半数はチャールスの失政は側近が悪いのであり、議会に服従してもらえればそれ以上の攻撃は考えてはいませんでしたが、クロムウェル派は違っていました。
倒すべき相手は、国王その人だったのです。
議会を取り囲む民衆は、クロムウェルを支持していました。
それに対して1642年1月、チャールスは軍を率いて議会を急襲。
クロムウェルを始め急進派議員を捕らえようとしますが、もぬけの殻でした。
その場にいた議長レンソールは、チャールスに恭しく答えました。
「陛下、私は議会に従う者でございます。議会がかれらの居所を話せと命じない限り、私には語るべき言葉がありませぬ。」
議員は再び結集し、「公共に関する一切の事項を議会が決定する」という宣言を出し、王制そのものを否定しました。
そして挙兵のための戦闘準備に入りました。
一方チャールスはヨークに逃れ、迎え撃つため武装します。ついに全面戦争が始まったのです。
チャールスに味方したのは古くからの大貴族、保守的な豪族(ジェントルマン)、対する議会派は独立富農民層(ヨーマン)、大商人、新興ジェントルマン達。
始めはチャールス率いる王党軍が有利でした。オックスフォードを占領し、ロンドンの手前まで軍を進めました。「国王陛下が攻めてくる!」議会に味方したロンドンはパニックに陥りました。
議会側にとっては負けられない戦です。チャールスは99回負けても国王には違いないが、議会側は1回でも負ければ大義名分を失い、逆賊となるからです。
議会はスコットランドのプロテスタント長老派(注2)に助けを求めます。
かれらは援助の見返りに、戦勝のあかつきには英国国教会を廃止し、自分たちの長老派体制を導入するよう要求してきました。これ以降、議会内部は長老派と、独立派(注3)という二大派閥がせめぎ合うことになります。
注2)長老派
信者を一部の幹部の支配のもとに置き、他の宗派の存在を許さないカルヴァン派の中核をなす存在。スコットランドに多く、チャールスを捕らえた時、英国国教会を廃止し、国王を議会の支配下に置こうとするニューカッスル提案を出したが、チャールスに拒否されました。
注3)独立派
信教の自由と寛容さを信念とし、長老派のように幹部による独裁を否定しています。
この時、クロムウェルが軍の再編成を口にします。
「王党軍が強く、われわれが弱いのは、寄せ集めの軍だからである。やる気のある者を集めよ。そして騎兵隊を再編成する。」
クロムウェルが編成した「鉄騎隊」は1644年4月、マーストンームーアの戦闘で王党軍を撃破。
彼は徹底抗戦を決意して、チャールスとの和平を望むマンチェスター伯らを司令官から更迭しました。かわりに身分の上下に関係なく、能力本位の指揮官中心に軍を建て直します。
そして新たな司令官としてフェアファックスを立て、1645年ネーズビーの戦いで、ついにチャールスをスコットランドへと敗走させたのでした。すでに前年、マーストンームーアの敗北で形勢不利を悟ったアンリエット・マリーは故国フランスへと落ち延びていました。チャールスはわずかな手勢とともにスコットランドに逃げ、長老派陣営に捕らえられます。
英国支配の野望を抱く長老派は、チャールスと妥協するつもりでしたが拒否されたので、彼を議会側に引き渡しました。
勝利をおさめたことで、議会内部は権力をめぐって分裂し始めました。
英国国教会にとって代わりたいだけの長老派は、早く元の秩序を回復したがりましたが、それに対して軍の中枢を占める独立派は、さらなる革命を求めました。
独立派の中でももっとも急進的だった平等主義派の思想(注4)は、150年後のフランス革命の先駆けといってもいいものでした。
「すべての住民は選挙において平等な発言権を持つべきだ。(ベティー)」
「英国の最も貧しい人でさえ、最も偉い人と同じように生きる権利を持っている」(レーンバラ)
注4)平等主義派の思想
1647年、水平派はクロムウェルら議会に「人民協約」を提示しました。
その内容は、「英国の人民は選挙のために住民の数に応じて平等に分配される」など選挙権を始め、信教の自由、強制的従軍の拒否、法のもとの平等など画期的な思想が含まれていました。