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「私の年収はスコットランド王国並みにあり、ノリッジにある私のテニスコートにいると、自分は王様と変わらないんだなあ、と感じる」(トーマス・ハワードの言葉、ヒバート著「女王エリザベス(下)」からの抜粋)

 トーマスは父サリー伯の処刑と同時に、母親から引き離され、ジョン・ウィリアムズ卿の監視下に置かれた。1年後、叔母の元リッチモンド公妃メアリーに引き取られ、そこでようやく兄弟姉妹と再会することができた。
 メアリー1世の即位が決定すると、ロンドン塔にいた祖父/第3代ノーフォーク公も釈放され、トーマス兄弟は、全員が母の元へ帰されたのだった。
 1553年11月、メアリー女王の戴冠式に、トーマスはバス・ナイトの名誉が与えられ、ウェストミンスター大聖堂まで護衛を務めた。翌年7月、メアリー女王がスペインのフェリペ皇太子(フェリペ2世)と結婚するとフェリペ付き・7人の家臣の1人に加えられた。 

 1554年8月、祖父が亡くなったために、ノーフォーク公爵位はトーマスのものとなった。

 メアリー女王の崩御後に即位したエリザベス1世も、東部英国最大の貴族として(また遠縁として)「朕のいとこ」と呼び、丁重に扱った。トルコ絨毯を関税無しで輸入し、売る権利など、数多くの特権を与えた。
 しかし、女房運にはあまり恵まれなかった。最初の妻・メアリー・フィッツアランはわずか17歳で、1男1女を残して早世した。たった2年の結婚生活だった。3年後再婚したマーガレト・オードリーにも、10年もたたないうちに、1563年3子を残して先立たれ、さらに結婚したエリザベス・レイバーンも(生没年は不明)数年で亡くなったという。

 屋敷と屋敷の間を往復する時でさえ、500人もの供を付き従えていた。
 トーマス自身、「自分はスコットランド王と同じくらい金持ちだ」と自慢していたほどだった。
 そんな彼が4度目の結婚相手に欲したのが・・・・本物のスコットランド女王メアリーだった。

 1568年、故国を追われた女王メアリー・スチュアート(ステュアート)は、エリザベス1世を頼って国境線を越えてきて、そのままボルトン城に監禁された。
 メアリー査問委員会のメンバーだったトーマスは、ある日メアリー自身から来た、一通の手紙を受け取った。
 そこにはラブレターのように、愛情溢れた文字が並んでいた。
 トーマスは胸をふくらませた。もし彼女と結婚できたなら・・・・おりしも、その頃、カトリック教徒であったノーサンバーランド伯とウェストモーランド伯らが、後に「北部諸侯の乱」と呼ばれる謀反の計画を練っていた。
 北部英国最大の貴族としてトーマスも仲間に加わっていた。
 カトリック教徒のメアリーを救い出し、英国王位につけることができたなら。
(あのような高貴な女性を妻にできるのは、英国最大の貴族にして王家の末裔である、私しかいない。)
 トーマスの夢は限りなく広がった。

 トーマスの結婚願望は、すぐに女王エリザベスにかぎつけられた。女王はトーマスに、いかにも親しげに、「朕のいとこよ」と呼びかけ、「何か結婚について話したいことがあるまいか?」と、鋭い質問をした。
 図星をつかれて思わずうつむいていると、「スコットランド女王と結婚したいのではないか?そういう噂を聞いておるが、左様か?」と、さらに鋭い質問が飛んできた。
「わ・・・私は枕を高くして眠りたいので、あんな(夫を暗殺するような)恐ろしい女性とは・・その・・」
 後日、エリザベスはトーマスを晩餐会に招き、その席上で、こうクギを刺した。
「枕には、くれぐれも注意するがよい。」

 1569年、スペインと英国との対立は深まっていた。英国側がスペイン船を掠奪すれば、すぐにスペイン側が英国の船を差し押さえる。報復合戦の中、駐英スペイン大使がメアリー女王と連絡を取り、シンパの貴族達の協力をえて、スペイン軍をダーラムの海岸に上陸させようとしている、との情報が入った。
 シンパの貴族の代表は、カトリックのウェストモーランド伯、もう1人は、トーマスの妹を妻にしているノーサンバーランド伯だった。

 エリザベスは真っ先にトーマスの謀反を疑い、すぐにウィンザー城へ来るよう命じた。
 何度も断ったあげく、ついに参内せざるをえなくなって屋敷を出てきたところを逮捕された。
 10月8日のことだった。
 そのまま連れて行かれたのは、ロンドン塔、祖父ノーフォーク公が監禁されていたと同じ部屋だった。
 北部諸侯の乱は、すでに始まっていた。2人の伯爵はトーマスを無視して挙兵していた。
 ウェストモーランド伯爵夫人は、トーマスを「臆病者」と罵っていた。
 反乱はまとまりを欠き、2ヶ月で鎮圧された。

 それから2年が過ぎた。トーマスにとって、毎日が祖父や父が味わった絶望を再体験することに他ならなかった。
 トーマスの処刑は、ずるずると引き延ばされた。
 エリザベスは、血縁にあたる者を殺すのに、激しいストレスをおぼえていた。
 1572年4月9日、処刑が決まっていたのに、その日の朝になって中止した。
 3回も同じ事が繰り返されて、トーマスもいい加減疲れてきた。何度もロンドン塔内からエリザベスにむけて、長文の悔恨を綴った手紙を出した。あのような夢想を抱いた自分が、誤りであった、と。
 その都度エリザベスは苦悩し、激しい全身の痛みに苦しんだ。自らの体を傷つけ、血を流した。
 しかし、数々の証拠から、トーマスが北部諸侯の乱に関わっていたのは、動かし難い事実だった。

 1572年6月2日、ついに刑の執行が決まった。トーマスは同じ場所で命を落とした父のことを思い、冷静だった。
 長い獄中生活の中で、いかに自分が愚かであったかも悟った。
 彼は、この場所で死を迎える人間は珍しくないが、女王の治世においては、自分が最初で最後になればいい、と言い残し、台の上の首を置いた。斧が振り下ろされた。

 享年、わずか37歳。
 それから8年後の1585年2月8日、メアリー・スチュアート(ステュアート)もまた処刑された。
                        

参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
Tudor England (Whos Who in British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh
イギリス文学小辞典 北星堂書店
シェークスピアの女たち 青山誠子 研究社選書