2歳のエドワード王子が、「ぐぅ」と奇声をあげ、船のオモチャを投げ捨てた。
 手足をふりまわし、ひっくり返って泣き出した。
「おー、どうした、どうした、何が気にさわったのかな」
 ヘンリー8世は目を細めて、贅肉のたっぷりついた腹の上に、息子を抱き上げた。
 機嫌をとりもどしたエドワードが腕の中で笑い声をあげた。

 気性の激しい父親と、性格も顔もよく似た息子。
 ひたすら2人の顔色をうかがう世話係たち。

 エドワードの生母ジェーン王妃が亡くなって1年あまり。
 王国は待望の跡継ぎをえた安心感から、王妃の不在を忘れていた。
 しかしエドワードが成長し、そのきかん気ぶりと病弱さがわかるにつれ、一抹の不安が影を落とした。

 新たな王妃を迎え、もっと王子王女を増やした方がいいのではないか。

 とはいえ、アン・ブーリンの時のような、血なまぐさい騒動はまっぴらだった。
 誰もが、今度こそ王妃にふさわしい王家の姫を求めていた。

 ヘンリー8世は、寵臣エセックス伯トーマス・クロムウェルに命じた。
(ヨーロッパ中で、王妃候補になりそうな女性の情報を集めてこい)
 その話を小耳に入れたフランス王フランソワ1世は、頼まれもしないのに、縁談をもちかけた。
 フランソワ1世には、王妃クロードとの間に3男2女の子供がいたが、次女のマルグリットをヘンリー8世に嫁がせよう、と画策していたのである。

 

フランソワ1世/クルーエ作/ルーブル美術館蔵


 (ふん、あの女好きめ)
 ヘンリーはおもしろくない。
 フランソワの好色そうな垂れ目を思い浮かべるだけで、あれやこれや酷い目にあわされた過去を思い出すのだ。

 「朕《わし》は面食いだ。肖像画を見るまでは王妃候補になどできぬ」
と、遠回しに断るが、フランソワは
 「肖像画などあてにしていてはダメですよ。直接本人と会うのが一番です」
と、ヘンリーを誘い出して娘と見合いをさせる気だった。

 「あやつは好かぬ。腹に短剣を隠し持っているような男だ。そんな奴の娘など…」
 ヘンリーは、口をへの字に曲げて見せた。
 「どいつもこいつも『もし王女と結婚なさったら、フランス併合も夢ではありませぬ』と言う。 
だが、逆にこの国がフランスに乗っ取られてしまいかねないぞ。だいいちエドワードの立場はどうなる?そんな危険を犯すわけにはいかん。縁談は無かったことにする!」
と、言い放つと、レースのハンカチで顔を拭いた。

  確かに下手に大国の王女など迎えたら、王位継承をめぐる争いは避けられないかも知れない。
 身分はいいが、強力な実家のいないような姫君がふさわしかった。

 間もなく、条件にあった姫が見つかった。
 ロレーヌ公の姫マリー・ド・ギーズだった。
 3人の息子がいる未亡人で、年は24歳。
 「若いし、多産系か、ふむ…」
 ヘンリーが乗り気なのを見て、寵臣エセックス伯トーマス・クロムウェルが直々に交渉に出かけた。

 マリー・ド・ギーズは、快活そうな青い目をした話上手な女性だった。
 すごい美女とまではいかなかったが、十分魅力的だった。
 再婚ともなれば、子供たちは一緒に暮らせない。嫁ぎ先が異国ともなれば二度と会えないかもしれない。そんな覚悟を迫られても、新たな人生のチャンスを掴もうとする、積極的な女性だった。
(こんなしっかりした姫が王妃になってくれたなら…)
 クロムウェルはマリーの顔色をうかがいながら、話を続けた。

 しかし、いざ具体的にヘンリーとの再婚の話が出ると、マリーは残念そうに頬に片手をあて、
 「実はもう先に縁談が決まっておりまして、準備が進んでおりますの」
と打ち明けた。

 マリーの話では、英国からの縁談が来る前、スコットランド王ジェームス5世からプロポーズを受けていて承諾してしまったのだ、と言う
 ジェームス5世はフランソワ1世の王女マドレーヌと結婚したが、一年もしないうちに亡くなっていた。
 少しでも亡き妻と縁のある女性と再婚したい…というジェームス5世に、配偶者をなくした者同士として、同情してしまったらしい。

 クロムウェルはもう少しで
(そんな話は聞いていない!)と叫びそうになって自分を抑えた。

 実際のところ、ジェームス5世との再婚話も打診があっただけだった。
 マリーも深くは考えていなかったが、ヘンリーとの縁談をプッシュされてみると、にわかにジェームス5世の方に心が傾いたのだろう。 ジェームス5世は 27歳の若者、一方ヘンリー8世は三度結婚して、いずれの妻も不幸な亡くなり方をしている48歳の肥満男性である。どちらがマシかは言うまでもない。

 ほどなく、マリーは3人の子供を残してスコットランドへ向かった。
 ジェームス5世は、フランスからきた快活なマリーを見て、
「先進国から来た君にしてみたら、スコットランドはど田舎だろうね」
と自嘲してみせた。マリーは明るく笑いながら
 「これから発展させていけばいいのよ」
と、答えたという。

 がっかりしているヘンリーの耳に、寵臣クロムウェルは新たな情報を吹き込んだ。
 「ブリュッセルに、神聖ローマ皇帝の姪で、すごい美少女がいますよ」
 「本当か?嘘ではないだろうな。」
 ヘンリーはクロムウェルに食いつくように確かめた。
 「ええ、評判ですよ。名前はクリスティーン姫」
 ヘンリーはその名前を以前にも聞いたことがあった。
 「ふむ。その姫君については、宮廷画家ホルバインに肖像画を注文したのではなかったか?。ホルバインを呼んでこい。ついでに姫君の肖像画もだ」

 クリスティーン姫は、元デンマーク王クリスティアン2世の娘だった。
 母のイザベラは、神聖ローマ皇帝カール5世のすぐ下の妹だった。
 わけあって、今は伯父/カール5世のお膝元であるブリュッセルに身を寄せていた。

 ホルバインは、ブリュッセルでの出来事を回想する。
(あれは1538年3月12日、たったの3時間だった)
 早春の日射しが、王宮の、白い大理石の床の上に光の粒を踊らせていた。
 何もかも白くまばゆく見える、温かい日だった。

 「気が進みません。私の肖像画を描くなんて…」
 扉の向こうから少女の抗《あらが》う声が聞こえてきた。
 「ほんの3時間ですよ、今日一日だけですから」
 女官らしい女がオロオロしながら説得している声が後を追ってきた。
 「3時間だろうが1分だろうが、嫌なものは嫌です」

 突然、目の前で扉が開いた。
 ホルバインはスケッチブックを落とさないよう、しっかり抱えなおした。

 目の前に立つ少女は、碧《あお》色のサテンのドレスに身を包んでいた。
 足首に届くほどのブロンドの髪が光をはねかえし、あたりに輝きを放っていた。
 走ってきたかのように息をはずませ、髪を波打たせ、頬がバラ色に染まっていた。
 (光の妖精)
 画家の中にそんな言葉が浮かんだ。

 「あなたが英国からきた画家なのですね?。私の顔など描いて何をなさるつもりですの?。私に顔が2つあったら、1つはヘンリー王にさしあげますのに」
 ホルバインは少女に見とれていて、自分に怒りが向けられていることを忘れていた。

 「私は11歳の時、ミラノ公フランチェスコ様と形の上で結婚いたしました。
 二年後あの方が亡くなるまで…いえ、亡くなった後も、私は フランチェスコ様の顔を知りません。お会いしたことがないのです。フランチェスコ様が亡くなって以来、私は未亡人として伯父上のお側で暮らしてきました。
 しかし今でも、私のこの肌を他人に許したことはありません。
 その事実を、ヘンリー王は果たしてどう受け止めて下さるでしょうか。
 最初の王妃キャサリン様は私の母の伯母にあたる方です。ヘンリー王はキャサリン様を、形だけ一度 結婚していた、という理由で追放なさいました。私も同じ、形だけ結婚して未亡人となった身。
 ヘンリー王に嫁いだなら、いつ追放されてもおかしくありません」

  女官が、少女の話を遮るように言った。
 「約束のお時間は過ぎております。約束を破れば、国と国との問題になりましょう」

  少女は何かをいいかけていたのを止め、静かに頷いた。
 「約束を破れば私の名にも、伯父上の名にも傷がつきましょう。よろしい、今用意してまいります」

 小一時間後、クリスティーンは女官に手をとられて現れた。
 未亡人を示す黒衣に身を包んでいた。
 あの金色の滝のような髪も黒い帽子に押し込み、一筋の髪の毛も見えなかった。
 手袋を持った白い手と、顔だけが黒い世界の中に浮かぶ光の島のようだった。
 そうして全身を喪服で包むことで、クリスティーンはさらにヘンリー8世の手から遠ざかった気がした。

 ホルバインは一心不乱で少女をデッサンし続けた。
 所定の時間が過ぎ、少女が立ち去った後も、彼はデッサン用の木炭を動かし続けていた。
 色づけと仕上げは、英国に帰ってから行った。
 目の中に焼き付いたあの顔を…あるか無きかの淡い金色の眉毛を、うっすら微笑を浮かべた紅い唇を
キャンバスの上に産み続けた。描くことによって、少女を画家自身の所有《もの》として蘇らせるのだ。
 背景は現実にはブリュッセル宮殿の白い壁であったけれど、クリスティーンの来ていた碧《あお》色と同じにしようと思った。

 完成した肖像画を見て、ヘンリーは歓喜の声を上げた。
 「これはすばらしい!なんという美貌だ…まさか誇張ではあるまいな」
 ホルバインはうやうやしく言った。
 「私の筆など、とうてい姫君の美を描き尽くせるものではございません」

 ヘンリーはよちよち歩きのエドワードを抱き上げて、肖像画を見せた。
 「見るがいい、神聖ローマ皇帝は、なんと美しい姪を持っていることだろう」

 もちろんホルバインは、姫と交わした会話について一言も漏らさなかった。
 ただ一言、
 「姫はこう仰せになりました。『私の顔が2つあったら、1つ差し上げましょう』と」

 ヘンリー8世は絵に目を奪われて、ろくろくホルバインの話など聞いていない。
 さっそく求婚の使者を遣わすつもりでいる。
 神聖ローマ皇帝カール5世、クリスティーン姫本人、それら双方から拒否の返事が届いていること
を、どう伝えていいものか…
 寵臣クロムウェルは頭を働かせた。

 「陛下、この縁談には宗教上の問題がございます。」
 「ん?なぜだ?姫の父、デンマーク王はプロテスタントではないか。同じ宗派だ」
 「いえ…そうではなくて、クリスティーン姫の祖母ファーナ様は、陛下の前王妃キャサリン・オブ・アラゴン様の実姉でおられます。親戚同士の縁組みは、ローマ法王の許可がなければいけません」
 「だから何だ。朕はローマ法王と絶交しておる。許可などいらん!」
 「よくお聞き下さい。つまり姫は、陛下の王妃であった方の血縁であられるのです。姫も神聖ローマ皇帝カール5世陛下も、はっきり仰せになりました。『ローマ法王の許可を受けてからおいで下さい』と」
 「むむ…なんと!。」

 ヘンリーは、二人目の妻アン・ブーリンの一件で法王とは断絶したままだった。
 今後も関係が復活することは無いだろう。

 「しかたあるまい…」
 ヘンリーは好物をとりあげられた子供のように、もったいなさげな視線でクリスティーンの肖像を眺めた。

 その後クリスティーンは、フランスのロレーヌ公フランソワと再婚した。
 光の妖精は、フランスの地で輝き続け、1590年61歳の天寿を全うしたのである。
 しかし、本人はホルバインの描いた肖像画の完成品を見ることはなかった。

                 (完)
                                  

デンマークのクリスティーン/

ホルバイン作/1538/ナショナルギャラリー蔵