(アン・ブーリンの門)

HAMPTON COURT PALACE
ハンプトン・コート

 
 ロンドンのウェストミンスター宮殿(現国会議事堂)から、テムズ河を遡航して21マイル
(1マイル=約1・6Km)。ロンドン/ウォータールー駅から電車で30分程度の、テニスで
 名高いウィンブルドンのすぐ先に、川岸の宮殿ハンプトン・コートがある。

 1514年、ここに屋敷を建てることを思いついたのは、ヘンリー8世の大法官であるトーマス・
ウルジー枢機卿だった。彼は邸宅の周囲に掘をめぐらし、幅3フィート(1フィート=305ミリ)高さ5フィートのレンガ製の下水施設を作った。上水は、対岸にあるクーム・ヒルの湧き水から、3・5マイルもの導管を引いて使用した、という。
 その上下水道施設は大変優れたもので、300余年後の1871年に新設工事をするまで大活躍だった。

 ウルジーの下で働くスタッフは500人を数え、一年間に食う牛の数は430頭、羊に至っては2000頭を数えたという。豪華な調度品や美術品を揃えた部屋数は、280もの数に上った。

 1525年、ヘンリー8世はこの屋敷がお気に召し、半ば強制的に己のものにしてしまう。
 ウルジーがヘンリーの離婚問題にかかわずらって失脚してしまうと、ここは本格的な王宮となる。
 1530年、門の1つを、それまで刻まれていた王妃キャサリン・オブ・アラゴンの頭文字「C」を
削り取り、新たに寵妾アン・ブーリンの頭文字「A」とヘンリーの「H」を組み合わせた通称
「アン・ブーリンの門」を作る。
 しかし第2王妃となったアンが没落し処刑されると、今度はジェーン・シーモアが王妃となり、1537年10月12日、待望の男児エドワード(後のエドワード6世)を出産した。
エドワードの洗礼式も、同じ宮殿内の王室礼拝堂で深夜行われた。
 天文時計が設置されたのは1540年、日時を知らせる他に、月の満ち欠け、満潮干潮12宮星の動きなども見ることができた。

だが、ハンプトンで有名なのは、王室礼拝堂近くの「幽霊の廊下」だろう。
さして長くも大きくもないその廊下は、第5王妃キャサリン・ハワードが姦通の汚名を着せられた時、王との面会を果たそうとして果たせず、その怨念が幽霊となってその廊下に出没するという。
           

血なまぐさい記憶のせいか、ヘンリー8世以外のチューダー諸王はハンプトンを好まず、そのかわり、次のスチュアート王朝に再び王宮としての華やかさを取り戻した。
 ジェームス1世は、1604年ここで独立派ピューリタン達との話し合いを持つべくハンプトン・コート会議を収集している。チャールス1世はここが好きだったらしく王妃アンリエット・マリーとともに王宮として使用した。

 革命によってチャールス1世が宮殿を追われ処刑されると、革命政府のトップである護国卿
(Lord Protector)ことオリヴァー・クロムウェルが1651年から7年間、ここを本拠地に活動した。

 名誉革命後、ウィリアム3世とメアリー2世は、ハンプトンを自分の好みに合わせて大改築することを
計画、任命されたのが、あの聖ポール寺院やグリニッジ宮を手がけた建築家クリストファー・レーン
だった。
東棟をバロック様式に改装したものの(グリニッジ宮がそうだったように)ウィリアム3世の死と、
その後継者アン女王の死により計画は頓挫してしまう。
この東棟「キングス・アパートメント」は1986年に火災で焼失してしまうが、6年の復旧作業の後、
ウィリアム3世当時そのままの姿で今に蘇っている。

その後も王宮として使われ続けた。アン女王が嗣子を残さず崩御し、ハノーヴァー新王朝が成立した後
も、ジョージ1世、ジョージ2世が住み続けた。
しかしこのジョージ2世と王妃キャロラインを最後に、王宮としての役目は終わる。
1737年に完成したジョージアン・ルームスは、純粋に国王と妃のプライベート空間であり、ベッドに
いながら入り口のドアの鍵を開閉できる仕掛けがある、という。

この宮殿を一般公開したのはビクトリア女王であるが、現在は環境庁がその維持と管理にあたっている。

                     
        

参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tuder History Lara E. Eakins
テムズ河 その歴史と文化 相原幸一 研究社

キャサリンの霊がさまようといわれる
「幽霊の廊下」撮影/著者


             
      (次はウィンザー城)