中世の昔、教会は我々が想像するよりも、ずっと多くの役割を果たしていた。
それはある時には指導者であり、喧嘩の仲裁者であり、冠婚葬祭の中心であるのと同時に、貧しい人々に施しを与える福祉施設でもあり、親を無くした子供を引き取る孤児院でもあり、また日々の癒しの場でもあり、仲間とのつながりを自覚する集会所でもあった。そして国王が横暴な時、訴えて懲罰を加えてもらえる、頼もしい存在でもあった。
では、教会は国王にとって何だったのだろうか。
もちろん1信者として、基本的な役割は農民が感じていたものと大差はなかったに違いない。悩みがある時は神の名のもとにカウンセリングを受け、時には王座の正当性や結婚証明をしてくれる便利な存在であった。
しかしいったん関係がこじれた場合、教会は手強い敵であった。
何より国内に2つの権威が並立することは、国家が2つあるのも同然だった。
国家とは、ある地域において唯一無二のものであることが、絶対の条件である。
国王が権力を独占しようとする時、教会は最大の敵であった。
この年(1536年)は、英国全体がいつ火がついてもおかしくないだけの社会不安を秘めていた。対フランス戦役、ローマとの分裂、国民に非常に人気のあった王妃の離婚、そして大法官トーマス・クロムウェルの不人気ぶり・・・・。
特に修道院解散と教会財産の没収は、国民の激しい不安をかきたてた。
1536年7月、3人の国王代官がリンカシャーにおいて、任務を遂行していた。
一人は修道院の財産没収、もう一人は補助金の評価、さらにもう一人は、聖職者の英国国教会に対する忠誠を誓約させる任務を帯びていた。それが始まってすでに一ヶ月が経過していた。リンカシャー全土の教会から、貴金属のプレート類と宝石が没収される段取りであった。
さらに「全ての角のある家畜、洗礼式、結婚及び葬式」に課税されることも決まっていた。
「人々は税金という形で王に敬意を払わなければ、白パンも鶏もガチョウも食べることができず、全ての人間が収入を申告して、もし虚偽があれば全財産が没収される」との噂が広がった。
9月のある涼しい晩、リンカシャーの小村ルースでは、国王代官の派遣に危機感をおぼえた村民が、20年前に完成したばかりの教会を守るべく、教会の全ての鍵をニコラス・メイトンなる靴屋に一任した。そして彼は一躍「Captain Cobbler(靴直しのキャプテン)」と呼ばれて、抗議運動のリーダーに立てられた。
薄暗い共有地に集結した住民は、教会の銀の十字架をかかげて、通りをデモ行進した。翌朝人々が、大法官クロムウェル代理が、武装して来たことに、再度抗議した。そして代官がクロムウェルの命令書を読み上げようとした時、書類を奪って引き裂き、ナイフを突きつけて拘束したのである。
10月2日、近隣の村から応援が駆けつけ、さらに騒ぎが大きくなった。
たまたまその場に居合わせたカトリック信者のサー・ロバート・ディモーク父子とその友人も群衆に加わった。
そこにヘンリー8世の庶子リッチモンド公の祖母と親しい聖職者が、武装グループに囲まれて到着、南からも「たまたまその場に居合わせた」リッチモンド公と親しいトーマス・パーシー卿率いる500人の部隊が合流した。
同日、サー・クリントンが従者1名のみを連れてハーシー卿の元を目指した。
キャサリン王妃の一人娘メアリー王女(後のメアリー1世)の養育係だったハーシーの妻は、メアリーを「王女」と呼んだ罪で投獄されてしまった。
国民は皆、メアリー王女こそ正当な王位継承者だと信じていた。
サー・クリントンは、ハーシー卿に反乱のリーダーになるよう頼んだが拒否され、シュルズベリー伯の元へ向かった。
一方その頃、ヨーク州でも反乱の火の手が上がっていた。
そちらのリーダーは、ロバート・アスクという弁護士だった。かれらはヨーク大僧正ヘンリー・リーに指示され勢いを増し、ヨーク州都ヨーク/ドンカスターと、次々と占拠していった。
かれらは信仰の自由と、貧困層に科せられた高い地代と税金の撤廃を求めていた。
アスクの指示の元に、40000人もの支持者が集結した。そしてアスクとリンカシャーでの反乱指導者メイトンは手を結んだのだった。
それは反乱軍にとって、聖なる抵抗であり、巡礼に近い行為だった。
アスクの軍旗には、キリストと聖杯、兵士の軍服の袖にはキリストが磔にされた時に受けた5つの傷を表すマークに囲まれた「Our Lord」という文字があった。かれらはメアリー王女とその異母弟リッチモンド公を支持していた。
法王もまたこの知らせを受け、前王朝プランタジュネットの血を引くソールズベリー伯爵夫人に特使を送り、その子息を反乱軍支援のためにフランドルへと派遣した。実際反乱軍の名簿を見ると、後のケットの乱とは異なり、実にジェントリーの参加者が多い。それだけに王室にとっては非常に危険な存在であった。
ヘンリー8世はヨークとリンカシャーにおいて反乱が起きた報告を受けて、ノーフォーク公、サフォーク公、エセクター侯らを討伐のために差し向けたが、公爵達は反乱軍の数の多さから、戦闘になった場合の被害を憂い、できれば話し合いで降伏させたい方針であった。
しかしヘンリー8世の頑迷さに懲りていた反乱軍は、討伐軍との話し合いを拒否した。
ところが、いよいよ白兵戦になろうとした前後から降り始めた雨が、瞬く間に豪雨に変わり、普段なら歩いて渡れる小川を濁流に変えてしまった。それを両軍は神の意志と受け取り、和平の合意となった。
ノーフォーク公は反乱軍の国王に対する請願書を受け入れ、反乱軍のリーダーらの恩赦を約束した。
国王への請願書の内容は、以下のようなものだった。
1)例外なしの恩赦
2)ヨーク又はノッティンガムでの議会開催
3)略奪した修道院財産の返還
4)法王への帰依の復活
5)王女メアリーの正当性
1536年12月9日、目的が達成されたかに見えたので、反乱軍は武装を解き帰宅した。
その有様は、
「And with this order every man quietly departed, and those who before were bent as hot as fire on fighting, being presented by God, went now peaceably to their houses, and were as cold as water..."
(そのオーダーとともに、どの人々も静かに出発し、神によって示された行為で炎のごとく熱く戦ったかれらは今、水ごとく冷静に帰宅した。)」
(The Tudorより抜粋/著者訳及び抜粋)
しかしかれらを待っていたのは、ヘンリー8世の卑劣極まりない裏切り行為だった。
ロバート・アスクは殺害され遺体は吊された。ニコラス・メイトンも処刑された。
反乱軍が復興させた修道院の僧侶たちが、教会の塔に吊され、
反乱に参加したジェントリーらも皆殺しにされた。処刑者は216人、その他に12人の修道院長、38人の修道僧に16人の司祭、中にはレディ・ブルーマのように、焼き殺された女性までいた。
中央貴族で反乱に参加した者は、パーシー卿のように、ロンドン塔での斬首が待っていた。また、ソールズベリー伯夫人のように、メアリー王女を「王女」として扱ったという理由で処刑されたケースもあった。
こうして反抗する者を皆殺しにして見せしめとしたヘンリー8世。
その蛮行を、もはや止める者はいなかった。
ヘンリーが全国の教会/修道院を破壊して得た財産は、現在の価値にして総額2858万2900ポンドにも上ったという。
(1ポンド=約200円/2002年秋)
ヨークでは、破壊された教会施設は106だった。
参考資料
/Life in Tudor Times by Jorge H. Castelli
The Tudors in West Yorkshire/by West Yorkshire archaeology servise