top of page

Lady Helena Snakeborg/1569/テート・ギャラリー蔵/




 

16世紀後半、エリザベス朝に入ると、女性のファッションは一変します。
一番外側に着るワンピース(ガウン)は袖無しが主流になり、ゆったりA型に広がった袖はまったく見られなくなります。
そのかわり、腕カバーのように、ピッタリ合った着脱可能な袖が主流となります。
金具や紐の部分は、肩パットによって巧みに隠されています。この袖無し外側ワンピースは「フランス式ガウン」と呼ばれています。
エリザベス朝の大きな特徴は襞付き襟(ラフ)の大流行です。もともとは下着のネックの部分に襞を寄せて外に出していたものが、やがて独立して取り外し可能なものに変わりました。
ラフの流行はエリザベス朝初期の1560年で、イタリア出身のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディチが故郷から取り寄せた物が英国にも広がりました。

1580年頃から17世紀にかけては「水車の輪」と呼ばれるほど巨大となり、食事時にラフを汚さないように、柄の長いスプーンが発明されました。
襞はカチカチであることが好まれたので、初期は針金が入れられたりしましたが、後に米糊によって固められました。
1564年、エリザベス女王はフラマン地方の女ラフ職人を招き、自分用の最先端のラフを作らせていました。
 
もう一つの特徴は、スカートを膨らませる張り方(ファーチンゲール)の大流行でしょう。
「farthingale(ファーチンゲール)」とは、もともとスペイン語の「verdugados(小枝)」が訛ったものです。
 文字通り、小枝を丸くたわめて、スカートを膨らませるための道具でした。すでにスペインでは15世紀末に使用されていました。
1520年頃、時の王妃キャサリン・オブ・アラゴンがスペイン出身だった関係から、英国にも輸入されたようです。
1570年代あたりから17世紀にかけて、スカートはパイナップル型に膨らんで、パーティー会場で全員が座りきれないような事態へと発展します。
 また、女性に負けぬ、とばかり男性のちょうちんブルマーの詰め物も増えて、ズボンはますまず膨らみ、議員が議会席に座りきれなくなったりもしました。

ファーチンゲールを腰から下げるためには、コルセットが欠かせません。
スペインのコルセットは金属製で、容赦なく肋骨を締め付けて、医学的見地から危険が指摘されていました。
そうした不自然さを嫌った英国では、コルセットはあくまで体型を補正し、張り方を下げるためのものに過ぎませんでした。
 当時のコルセットを復元して身につけた人の感想によれば、「現在のコルセットとあまり変わらないので苦しくない」との事です。

また、腰のまわりにはスカートをさらに膨らませるための半月型の腰パット(Bumrollバームロール)をつけました。
髪型はラフの流行のためにヘッド・ドレスは消滅し、高く結い上げて小さな帽子や飾りをつけるようになりました。

袖の形はぴったりした筒型が主流でしたが、1580年代に入ると、再びスペインから新しいルックが導入されるようになりました。筒型の袖の上にもう一つゆったりした袖をつけ、肩と手首の部分で留められている以外は、腕の形がよく見えています。
エリザベス女王はまたこのファッションを好み、「スペイン袖」として流行することとなります


エリザベスは、即位するまで目立たぬようにしていたためか、その反動として女王になってほどなく、ファッションに対して華美になっていきました。
 1564年のスコットランド大使メルビルの報告によれば、エリザベスは「毎日衣装を変え金髪を賛美させ」メアリー・スチュアート(ステュアート)と同じぐらい「美しいと」言わせていた、との事です。もっともエリザベスの髪は、我々が想像する金髪(プラチナ・ブロンドまたはアッシュ・ブロンド)とは異なり、限りなく赤毛に近い赤みがかったブロンドでしたが、英国の概念では、それでもブロンドの範疇に入るそうです。

 

 エリザベスは80個ものカツラを持ち、ドレスや装飾品は海外の使節達に見物できるよう展示してありました。
 遺品には、6000着ものドレスが残されておりました。
 晩年には赤いカツラを好んだために、残された肖像から地毛を想像するのは難しいです。
 1562年に発令された贅沢禁止令(Sumptuary laws)によれば、平民に女王と同じファーチンゲール(張り型のスカート)とラフ(襞襟)の着用を禁止しました。
 女王に任命された4人の市議会員が、全国民に法令に違反していないかどうか、吟味したといいます。
 男爵以下の身分の者による、種類を問わず1ヤード以上の長さの布を使った衣服、またはタフタやベルベットやサテンの布の使用が禁止されました。
 これは偶然にもロシア・ロマノフ王朝の同名の女帝エリザベト(ピョートル1世の娘)が命じた、家臣は女帝が好む「ピンクを着てはならない」という掟を連想させます。
 もっともエリザベト女帝の場合、自分以外の者は貴賤を問わず、一切禁止したのですが。

 1584年ルーポルト・ファン・ベンツェルの報告によれば、エリザベスは「銀糸と真珠で君主らしく刺繍された黒ビロードの喪服だった。穴が多く、透けて見える銀色の衣装を上にかけていたが、麻布が縫い目にへこむように縫ったものだった。全体に箔を散らしたような印象あった。そういう物を衣服の上に上着のように長くかけていた」
 この記録から推測するに、エリザベスはこの時、黒地に真珠と銀糸で飾り付けた、だが黒の印象の濃いドレスの上に、透けるようなメッシュ生地で、穴の縁を銀糸でかがり、全体として銀色に見えるような薄物のベール風ガウンを身につけていたものと思われます。

英国刺繍は、修道院が廃止されるまで、数世紀に渡って聖職者が主流でした。
おそらく今でもパリの中世美術館で見られる司教や神父の華麗な聖職服を飾ったものと似た刺繍が、英国一般にも普及したのでしょう。
16世紀の主流になったのはブラックワークBlackwork といわれる手法で、一般的にはモノトーンの色彩からなりますが、希に暗い色彩、深紅にも刺繍されていました。

16世紀後半/エリザベス朝の女性のファッション

巨大なラフをつけたエリザベス1世の肖像画ニコラス・ヒリアード作/1585年/ハットフィールドハウス所蔵

スペイン袖をつけたレスター伯爵夫人レティス・ノウルズ

黒衣に真珠をつけた女王エリザベスQuentin Metsys the Younger作 シエナ/ピナコテーカ美術館蔵

参考資料
Paula Katherine Marmor by The Blackwork Embroidery Archives
モードの生活文化史 マックス・フォン・ベーン 河出書房新社
女帝エカテリーナ  アンリ・トロワイヤ 中公文庫
Eliizabethan sunplary statutes by Maggie Secara,

 

bottom of page