シャルロット・コルデー
(1768~ 1793)             
死刑と美しい暗殺者

 フランス革命に触れる前に日本で行われた有名人の処刑話を1つ。

 明治元年1868年4月、明治政府側に捕らえられた新撰組隊長近藤勇が処刑された。
 執行したのは岐阜の剣術師範であった。「言い残すことはないか」との質問に近藤が「・・宜しく頼む」と答えたのを聞き届けると、「一刀のもとに」首を切り落とした。
 使った刀の名は二王清綱・・・

 実は西洋史で「一刀のもとに」首を切り落とした話はあまり聞かない。
 せいぜい1536年5月、英国王妃アン・ブーリンが処刑された時、フランスから剣による斬首のうまい執行人が呼び寄せられたぐらいである。

 執行人は跪いているアンの背後に回り、「一刀のもとに」斬首した。
 フランスでは16世紀の一時期こうした剣の使用があったようだが、後々廃れてしまう。
 16世紀以降は、英仏通して処刑と言えば剣ではなく、斧の使用が普通だった。

 囚人はまな板のような木の枕木に目隠しをして首を置くと、執行人が上から斧を振り下ろすのである。
 これがけっこう難しいらしい。
 1587年スコットランドのメアリー・スチュアートがエリザベス女王との政争に破れフォザリンゲー城で処刑された時のこと。
 華奢で知られたメアリーの首を切り落とすのに、斧を三回も振り下ろさねばならなかったという。

 最後には斧でのこぎりのように前後に引いて切断した。

 その他1685年に処刑されたモンマス公ジェームズ・スチュアートは、処刑人が慣れなかったために血みどろ状態で10分ほど生きていたらしい。書いているだけでも気分が悪くなってくる。
 斧による処刑は手元が狂いやすく、それがなおいっそう死に対する恐怖をかきたてたのだった・・・

 これらは全部英国の例だが、フランスでも状況は変わらなかった。
 そこでもっと機械的かつ人道的(?)に、処刑するために考えつかれたのが、ギロチンであった。

 似たような処刑道具はすでに16世紀に英国にあり、ハリフォックスやスコットランドなど地方では一時的に使われていたが、国家規模で大々的に使用されたのはフランス革命が最初であった。

 もっともギロチンが100パーセントうまくいくかというと、そうでもなかった。
 1793年1月ルイ16世が処刑された時は失敗した。処刑人が手を貸そうとするのを誇り高く拒んだ王は自ら襟をゆるめ、処刑台に登った。
 ところが彼は大変太っていたのでギロチンの刃が首にめりこんだまま止まってしまった。
 処刑人は刃を上から押さえつけて首を切断した。

 意外にもフランス革命の時代には暗殺は少なかった。
 モンターニュ派の内部抗争を見れば暗殺がありそうなものだが、実際は議会で糾弾され、「告発する!」と言われれば死刑宣告されたも同然だった。
 影でこそこそ抹殺する必要もなかった。
 ロベスピエールやダントンを始め議員の多くが弁護士か法律関係者だったことも無縁ではなかろう。
 法に照らし合わせれば暗殺はただの「殺人」である。
 またサンジュストのように政敵に恥辱を与えて、公的にも抹殺したいと考える人間にとっては、革命裁判所に引っぱり出してさらし者にした方が暗殺より好都合だった。モンターニュ派のデムーランがロベスピエールを批判したことで革命裁判所に告発された時、サンジュストは相手の発言を禁じた。
 その上でさんざん非難し、「人間として軽蔑する」と吐き捨てた。
 デムーランはスパイ容疑や反革命の罪状に一切弁明できないまま処刑された。
 ここまでやらないと気が済まなかったのだろう。

 しかしながら暗殺が皆無だったわけではない。自分も殺人罪で処刑されることも厭わなかった者が中にはいた。
 例えば1793年1月、ルイ16世の処刑が決まった直後・・・・・・・処刑に賛成した議員の一人ルペルチェ・サン・ファルジョはパレ・ロワイヤルのレストランで昼食をとろうとしたところ、一人の男が名を呼びながら近づいて来た。
「サン・ファルジョか?」
「そうだが?。」
「善人そうに見えるな。国王の処刑には賛成しなかったのか?」
「いや、賛成した。」
「ならば、これが報いだ!!」
 男はそう叫んでサン・ファルジョの胸をナイフで刺し貫いた。
 国王処刑の知らせに悲憤慷慨した元近衛兵の仕業であった。

 フランス革命の暗殺といえば、忘れてならないものがある。
 ダヴィッドの描いた有名な作品「マラーの死」

 髪を布でくるんで浴槽に使っていた裸の男が無念そうにのけぞって息絶えている。
 ジャン・ポール・マラー。ジャコバン派のリーダーの一人。
 享年50歳。
 犯人はカルヴァドス出身の25歳の美女シャルロット・コルデー。
 彼女は中央政界から追放されたジロンド派に強い同情心を抱いていた。
 かれらの話を聞くうちに、いつしかシャルロットの胸の中では、ジャコバン派は悪魔のような存在になっていった。
 中でも扇動家のマラーは最大の憎むべき敵であった。
 1793年の7月、シャルロットはある決意を秘めて上京した。
 そして「有力な情報がある」という触れ込みでマラーに面会を求めた。
 その時マラーは入浴中であったが、快く迎えた。
 そして話を聞いてペンを取ったマラーに胸めがけてナイフを振り下ろした。
 ほとんど即死だった。
 最後まで冷静だったシャルロットは一度だけ腹を立て顔を真っ赤にした。
 それは裁判の席上、裁判官から「あまりにも手慣れた犯行だ。何人も殺して来ているんだろう?」と言われた時だった。

 4日後の7月17日、シャルロットはギロチン台にあがる。
 その神々しいまでの美しさに、思わず自分から処刑を願い出た男までいたという。


ダヴィッド作「マラーの死」1793年ベルギー王立美術館蔵)