エリザベス・オブ・ヨーク
  (1466~1503)
Elizabeth of York, Queen of England


 エリザベス・オブ・ヨーク/1500年作・作者不詳ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
                    
 エリザベスは1466年2月11日、ウェストミンスター宮殿で生まれた。
 再婚の母・エリザベス・ウッドビルにとっては3人目の子、父エドワード4世には隠し妻との間に2人の子がいたので、父にとっても3人目の子という事になる。
 しかし、正式な王と王妃の間に生まれた子としては、エリザベスが最初である。
 エドワード4世は、この隠し妻エリノア・タルボット(またはバトラー)との結婚を公式には隠したまま、王妃エリザベスを迎えたので、純然たる重婚であった。
 その事をエドワードは生前隠し通し、死後になってバースの僧正スティリントンが告白して、初めて公にされた。

 これが後に、重大な結果をもたらす事になる。

 エリザベスは5歳の時、ノーサンバーランド伯ジョン・ネヴィルと婚約していた。
 しかしジョン・ネヴィルの父、ベッドフォード公がランカスター側に寝返ったため婚約は解消となり、次にフランス皇太子との縁組みも考えれたが、これもご破算になった。
 最後に敵側のリッチモンド伯ヘンリー(後のヘンリー7世)との縁談も持ち上がったが、当初ヘンリー側は、ヨーク側に取り込まれる恐れを感じて拒否した。皮肉な話である。

 1483年エドワード4世が亡くなった時、エリザベスの一家は父王がエリノア・タルボットという別の妻がいたことを理由に、「庶子」の烙印を押されてしまう。
 少年王エドワード5世と、ヨーク公リチャードはロンドン塔に監禁され、エリザベスもその後を追っていくはずだったが、直後に2人の王子は行方不明になったという。
 この2人の王子がどうなったのかについては、闇の中である。
 現在では、ヘンリー7世によって抹殺されたとの説もあれば、弟のヨーク公だけが生き残り、トーマス・モアの手で育てられた、との説もある。いずれも明白ではない。

 1483年、リッチモンド伯ヘンリーは、以前エドワード4世在世中には拒否したエリザベスとの縁談を政治的に利用することを考えた。そして同年12月24日、ブルターニュのレンヌ大聖堂で、「私が王位についたら、エリザベス王女を妃に迎える」と宣言した。

 1485年8月、ヘンリーがミルフォードヘブンに上陸した時、エリザベスはヨークシャーに隣接したグロスターで、保安官ハットン卿の保護下にいた。
 8月22日、ボズワースの決戦でリチャード3世が味方の裏切りのために戦死し、ヨーク王朝が断絶すると、エリザベスは否応もなくヘンリーの妃にならざるをえなくなった。
 当初ヘンリーは結婚の約束を遅らせていたが、クリスマス直前、英国下院はヘンリーの王位を認める代わりに、早々にエリザベス王女を妃にするよう要請した。そのため年が明けた1486年1月18日、ローマ法王の認可も下り、ウェストミンスター大聖堂
で結婚の儀が執り行われた。
 これによって、ランカスター側とヨーク側が1つになり、薔薇戦争は終結したのである。

 エリザベスが幸福であったかどうか、簡単には判断できない。
 後世語られているほど、この時代リチャード3世が悪役だったはずもなく、2人の弟の死については、ヘンリー7世自身の手で抹殺されたのではないか、との根強い噂もあったはずである。しかも猜疑心の強いヘンリーは、アイルランドでの反乱に、エリザベス・ウッドビルが関係しているとの咎で、義母をバーマンジーの修道院に幽閉してしまう。

 夫妻の間には、アーサー、マーガレット、ヘンリー、メアリーと4人の子が生まれ、一見王家は安泰のように見えた。

 しかし長男で皇太子アーサーは1502年 4月2日、ウェールズで急死した。悲しみの中で、エリザベス王妃は再び身ごもり、1503年2月11日、ロンドン塔の産室で最後の王女キャサリンを出産 し、そのまま亡くなった。
 新生児キャサリンもまた、数ヶ月後には死んだ。

 エリザベスがどのような女性であったか、ほとんど記録に残っていない。
 ただ音楽を愛し、グレートハウンドを飼い、狩りを好んで自らも弓矢をとった、という長身の活発な女性だった、という逸話が残るのみである。
    

     参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
英国王妃物語 森 護 三省堂

 

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