マーガレット・チューダー 
    (1489~1541)
Margart Tudor, Queen of Scotland

マーガレット/D.マイテンズ作/王室コレクション/ホーリールード館蔵
      
 マーガレットは1489年、ヘンリー7世の2番目の子として、ウェストミンスター宮殿で産声をあげた。

 実母エリザベス・オブ・ヨーク妃は、13歳の時に亡くなった。母の死の直後、マーガレットはかねてから婚約関係にあったスコットランド王ジェームス4世との間に代理人結婚(代理人を通しての入籍)を済ませ、王妃となる教育を受けつつ、嫁ぐ日を待っていた。

 1503年、いよいよマーガレットはスコットランドへ出発した。
 多数のお供を付き従えてバーウィックを出た花嫁行列は、スコットランドのラムトン・カーク村で花婿側の出迎えを受けた。そこではじめてマーガレットは、付添人代表のノーサンバーランド伯から、祖国の花を捧げ持ったジェームス4世を紹介された。新郎新婦はその後エジンバラへ向かい、ホーリールード宮殿で式をあげた。
 華やかな宴や馬上試合が続いた後、一段落すると、ノーサンバーランド伯ら英国側一行はスコットランドを讃える言葉を残して引き上げていった。

 しかしヘンリー7世にあてた手紙によれば、マーガレットは幸福とはいえなかったらしい。
 夫のジェームス4世は女好きであり、スコットランド人も長い間敵対関係にあった英国の王女に冷ややかだった。6人の子供に恵まれたけれど、3人は産まれて間もなく亡くなった。かろうじて皇太子のジェームス(後のジェームス5世)のみが成人後まで生き延びた。

 寂しい結婚生活も、長続きはしなかった。
 1513年8月、ジェームス4世は20万もの大軍とフランドル製最新鋭の大砲を携えて、国境を侵犯した。
 英国側の国境防衛ポイントであるノーサンバーランドのノラム城が陥落した。
 数日のうちに、付近の英国軍要塞を次々と手中に収め、そのうちの1つ、フォード城に拠点を置いたジェームスは、城主夫人をレイプした、という。
 英国王ヘンリー8世が、フランス戦線に出陣している間の出来事だった。
 夫の行為を、マーガレットはどのような気持ちで伝え聞いていただろうか。
 元々敵国同志とはいえ、両国友好のために嫁いできたというのに、夫は次々と愛人を作り、妻の祖国を蹂躙しようとしている。この時、英国側はジェームスの非道な行為に天罰が下る、と怒りの声をあげていた。

 マーガレットもまた、内心夫を突き放していたのかもしれない。

 まもなく、天罰ともいえる事件が起こった。
 スコットランド軍を迎え撃った病身のサリー伯は担架の上から指揮を取り、補佐する息子のトーマスは、祖国の守護聖人カスパードの旗を頭上に翻していた。
 両軍は国境線近いブランクストン川付近で対峙した。
 9月9日、フロッドンで激しい戦闘が起こった。見通しが悪いために大砲が効かないとわかったスコットランド兵は陣地のあった高台から、一気に平地へ駆け下りた。
  そのとたん、待ち受けていた英国軍の集中砲火を浴び、軽装歩兵の突撃に遭遇した。
 長槍で武装していたスコットランド兵は身動きできないまま、殺戮に近い大惨敗となった。
 血の海の中に、切り刻まれたジェームス4世の遺体が転がっていた。

「今なお、父から息子へと語り継がれる過酷な負け戦と、悲しい大虐殺のことをフロッドンの運命を決した戦場のことを」
(ウォルター・スコット「マーミアン」1808年)

 マーガレットは夫の死についてはすぐに諦めがついたかもしれないが、幼いわが子には胸を痛めたに違いない。

 父の死を受けて、急遽即位した新王ジェームス5世はわずか1歳半だった。
 時の英国は、不在のヘンリー8世の代理として、王妃キャサリンが国務を取り仕切っていた。
 キャサリンはフランシスコ会僧を使節として送り、マーガレットが新王の摂政として親英政策を取るのであれば、スコットランドの独立を認める、と伝えた。
(これで息子の地位も安泰、私もこの国を支配できる。)
 マーガレットに異存はなかった

マーガレット(右)と再婚相手アンガス伯アーチボルト・ダグラス(左)
作者不詳/個人蔵 

                          

 マーガレットは摂政になるやいなや、重大な失敗を犯してしまう。
 夫が亡くなって半年もしないうちに、アンガス伯アーチボルト・ダグラスと再婚してしまったのだ。
 これでは国民や貴族に「夫の生前から関係があったのではな いか?」と疑われても仕方がなかった。
 1515年10月6日、マーガレットは同じ名前の娘・マーガレット・ダグラスを出産した。
 同年、先王ジェームス4世の従兄弟アルバニー公ジョン・スチュワートがフランスから帰国した。
 スコットランド貴族達は「アルバニー公を摂政にせよ」と騒ぎだした。
 怒ったマーガレットは夫と生後半年の娘を連れ、英国の実家へ帰ってしまった。

 摂政の地位を降りたとはいえ、皇太后の権勢は衰えていなかった。マーガレットとダグラス家は、10年以上も国王をエジンバラ城に閉じこめたも同然だった。
 1527年、マーガレットはアーチボルト・ダグラスと離婚した。
 1528年、16歳になったジェームス5世はエジンバラ城を抜け出して独立を宣言、ダグラス家を政界から追放した。
 英国へ亡命したアーチボルト・ダグラスは復讐を誓って、英国王ヘンリー8世に臣従した。
 1532年11月、先制攻撃としてスコットランドがノーサンバーランドを攻撃すると、12月には報復のために英国軍2000人がスコットランドを侵略して、12の村を占拠し、2000頭もの牛と羊を強奪した。
 以来ジェームス5世は29歳で亡くなるまで、英国との戦争に苦しめられることになる。

 マーガレットはどうなったか?
 1527年にアーチボルト・ダグラスと離婚した直後、今度は最初の夫の遠縁にあたるメスベン卿ヘンリー・スチュアートと三度目の結婚をした。そして翌年3月3日には、娘ドロシー(早世)を出産している。
 おそらく不倫の末の掠奪結婚であろう。その14年後、1541年10月18日、マーガレットは夫の領地/メスベンで、52歳の波乱の人生を閉じた。

 強国/英国の力をバックにわが子であるジェームス5世を支配し、好き勝手に結婚/離婚を繰り返して、スコットランドを混乱に陥れた女・マーガレット。
 その軽薄な性格は孫のメアリー・スチュアート(ステュアート)に受け継がれた。
 一方、父親とともに英国に亡命したマーガレット・ダグラスはというと、現地で遠縁にあたマチュー・スチュアートと結婚して、ヘンリー・ダーンリーという軽薄な男を産んだ。
 軽薄な男と女はやがて軽薄な結婚をして、英国とスコットランド2つの国を支配したジェームス6世(英国スチュアート朝開祖ジェームス1世)が誕生する。ジェームス1世は絶対王制を目指してピューリタンと議会を敵にまわし、英国史上、ピューリタン革命という、空前絶後の大混乱を招くきっかけとなる。
                 

       参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tuder History Lara E. Eakins
スコットランドの歴史 R・キレーン 彩流社
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社

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