エリザベス・ステュアート(スチュアート)1603年/作者不詳/ナショナル・マリタイム美術館蔵

 

「いけません、危険すぎます!そんな危険なところに娘はやれません!。」
 デンマークのアンは、娘の縁談相手を聞かされた時、そういって反対した。
 ジェームス1世長女エリザベスの夫に選ばれたのは、ドイツのファルツ選帝候フリードリッヒだった。
 ジェームスは同じ新教国として、ドイツの王侯を選んだ。
 しかしそれは、エリザベスのみならず、英国がドイツの内戦に巻き込まれることを意味していた。
 しかし、ジェームスは妻の反対を押し切って、娘を嫁がせた。1613年2月14日のことだった。

 当時ドイツは利権を巡って、新旧両教徒入り乱れての内乱状態にあった。1608年、新教徒が連合を作ると、それに対抗するため、オーストリア皇帝はカトリック勢力を合わせて連盟(ラ・リーグ)を結成。覇を競い合っていた。
 そんな中、ボヘミアで、反オーストリアの火の手が上がった。1618年、皇帝マクシミリアン2世の新教徒弾圧に怒ったボヘミア貴族が、プラハからオーストリアの高官を叩き出し、新たに自分達で王を推挙した。
 それがファルツ選帝候フリードリッヒだった。彼は最初全面的に皇帝側を敵に回すことに気が引けていたが、結局承諾し、1619年11月4日、プラハにおいて即位した。

 その一月前、フリードリッヒは妻を連れてプラハについていた。
 エリザベスはファルツのど田舎から、大都会プラハに出られたことに満足して、英国風の劇の上演や仮面舞踏会に明け暮れたという。厳格なカルヴァン派信者の多い市民は眉を顰めたが、その一方で多くの人々がエリザベスの美貌に魅了された。そんな彼女についたあだ名は、「ハートのクイーン」だった。

 しかし幸福は長続きしなかった。皇帝側が反撃に出たのだ。
 マクシミリアン2世は強気であった。「フリードリッヒなど、溶ける雪と同じだ。春が来れば駆逐されるだろう」と豪語していた。その言葉通り、即位からちょうど1年後の1620年11月8日、フリードリッヒは皇帝軍率いるグラーフ・ヴァン・ティリ伯に大敗する。
 そしてフリードリッヒには「冬の王」、エリザベスには「冬の女王」なる情けないあだ名がつけられた。

 英国王ジェームス1世は、娘夫婦を助けようとはせず、援軍も送らなかった。
 ドイツでの利権のおこぼれを狙いながら、内乱に巻き込まれる危険をできるだけ避けたかっただめである。
 1623年、フリードリッヒとエリザベスは捕えられ、オーストリア皇帝の監視のもとに幽閉されることになる。
 その9年後、彼は幽閉先のマインツで病没する。一説には、皇帝側に暗殺されたともいう。

 その後エリザベスはオランダで暮し、1661年になって、ようやく故国の土を踏む。
 夫の死後は黒いドレスに黒いリボンの喪章をつけ、耳には夫から贈られた真珠のイヤリングをつけていたという。

 夫婦仲のよかった二人の間には、なんと13人もの子供に恵まれた。
 その第11子ルーパート(1619~1682)は、英国の清教徒革命において叔父チャールス1世の側に立って戦った。
 また、末子のソフィア(1630~1774)はハノーヴァー家に嫁ぎ、その息子のゲオルグは、英国王位を継いでジョージ1世として即位した。異国でひっそり芽生えた花は、英国史で花開くのである。

 上の画像は、夫のボヘミア王(ファルツ選帝侯)フリードリッヒとエリザベスの肖像。
 バルタサール・モンコメットによる1620年頃の作品。(ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)2人の夫婦仲は良く、エリザベスは夫がボヘミア王になることを強く推していた。
「ファルツ選帝候妃として黄金の皿で食事しているより、ボヘミア王妃としてザワー・クラウト(庶民のキャベツ料理)を食べた方がましですわ」と語り、夫とともに戦乱の道を歩んだのだった。

 自ら選んだ道ではなかったのに、運命から目を逸らさず、果敢に戦ったエリザベス。
 英国の人々は彼女に喝采を送った。そしてスチュアート王朝が断絶した時、英国民が王に選んだのは、ジェームス2世の王子ではなく、エリザベス王女とフリードリッヒの子孫だった。

エリザベス王女の肖像/ヴァン・ホンソル作/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

夫の死後なので、黒い喪服を身につけている。髪は本来ブロンドだが、黒く染めているのか、加齢によって色が濃くなったのか不明である。

 参考資料/
The Stuarts Historyonthenet 2000-2004
世界の歴史7 近代への序曲 中央公論社
ナショナル・ギャラリー公式サイト