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 1610年5月14日、フランス国王アンリ4世は、パリの路上において、狂信的なカトリック修道士の手で刺し殺された。享年57歳。
 その約半年前、第2王妃マリア・デ・メディチとの間に3女が産まれたばかりだった。
 この王女こそ、アンリエット・マリーだった。

 実母マリアは気の荒い女で、長男ルイ(後のルイ13世)を見るたんびに笞で打ち据えたという。
 親子仲は極めて悪く、ルイ13世は1619年には武力衝突まで起こしてマリアを摂政の地位から追い出した。アンリエットはろくに両親の顔を見ないまま成長した。

 13歳になった頃、縁談話が持ち上がった。
 お相手は9才年上の英国のチャールス皇太子・・・父のジェームス1世は、カトリック側とよりを戻すため、ぜひカトリックの王室から次期王妃を迎えたいと考えていた。
 ところが交渉役の人選が悪かった。担当者のバッキンガム公は、スペイン王フェリペ3世王女との縁談をまとめるためにマドリッドにまで行きながら、尊大な態度ですっかり心証を悪くしてしまい、縁談はぶち壊れた。
 で、今度はアンリエット王女との縁談をまとめるべくパリまで行っておきながら、ルイ13世王妃アンヌを口説くなど、軽薄な男であった。

 幸い今回の縁談は無事まとまり、1625年5月、アンリエットはチャールスと結ばれた。
 時にチャールス24歳。アンリエットはまだ15歳の少女だった。
 しかし彼女は熱心なカトリック信者。ウエストミンスター寺院での英国国教会式は嫌だといって、1ヶ月後の6月、改めて別の教会でカトリック風に式をあげる始末であった。

 結婚当初は、例によってあのバッキンガム公に困らせられていた。
 チャールスは彼に夢中だったからである。しかし、この浪費男が退役軍人によって1628年暗殺されると、状況が変った。
 激しく落ち込んでいるチャールスに、アンリエットがおずおずと、
「あの・・・何か私でお慰めできることはありませんか?」
と話しかけると、チャールスは、
「いつまでも落ち込んでいるわけにもいくまい。そなたにも寂しい思いをさせてきたな・・許せ。」
と、初めて妻と正面から向きあったのだった。

 この男チャールス、英国王ジェームス1世の次男として生まれ、兄の死とともにプリンス・オブ・ウェールズとなり、1625年父の後を継いだ。
 生まれつき病弱な上に身長160センチの貧弱な体、そうした肉体的コンプレックスを跳ね返すべく、覇気に満ちた勝ち気な性格だった。軍事的才能がありながらも武運なく、負け戦を果敢に戦い抜いた生涯は、さながら日本の戦国武将のようである。

 愛し始めると、彼はひたむきにアンリエットを愛した。およそ英国史上、アンリエットほど夫に愛された王妃はいないだろう。 チャールスは一生、妻以外の女性 とは関係を持たなかったことで知られている。二人は政略結婚とは思えないほど愛し合い、次々と9人の子供に恵まれた。

 アンリエットは何とか夫の力になりたかった。1639年、議会が国王に対して対スコットランド新教徒掃討戦の戦費を出し渋った時も、兄ルイ13世やバチカンに資金調達を頼み込んだ。それは失敗してしまった上に、議会の反感を煽る結果となった。

(あのフランス女、余計なことをしやがって!)
 1642年1月、議会はマンチェスター伯を筆頭とする5人の代表によって、アンリエット弾劾声明を出そうとした。それを阻止しようと、チャールスは自ら軍 を率いて議場に乱入、タッチの差で逃げられた。
 5人は議会を煽って自衛のために武装蜂起を計画した。にわかにロンドンは騒然とし始めた。

 この戦い、英国では「civil war(内戦)」と表記し、革命という単語を使いたがらないように見える。
 しかし私は、あえて「革命」と表記する。
 これは革命以外の何物でもないではないか??

 戦いが始まるまで、宮廷は義姉のアンヌ王妃がうらやむほど、華やかだった。
 ベン.ジョンソンを始めとする作家達の手になる国王を讃える仮面劇に舞踏会。もはやそんな楽しい日々は二度と帰ってこない。
 10日後、二人はロンドンを離れてヨークへ逃げた。


 

 上の画像とページ初めの画像、ともにヴァン・ダイク作のアンリエット・マリーの肖像画
 

「あなた、お金のことは私にまかせて! どうか戦いに専念なさってね。」
 アンリエットはオランダの王子に嫁ぐ長女メアリー王女に付き添い、軍資金調達のためにオランダへ行くことを決意した。
 すでに実家から持って来た宝石は売り払い、戴冠式用の宝石の一部も処分するつもりだった。
(すまない・・・・。)
 チャールスは、水平線の彼方に消え行く船を見送りながら、岸にそって馬を走らせたという。
「帆を高くかかげて!あの人に見えるように!!。」
 アンリエットはそう叫んで、岸が完全に見えなくなるまで、帆を目一杯広げさせた。
(
 オランダに渡ったアンリエットは必死だった。200万ポンド(約四億円)をかき集め、傭兵隊/武器弾薬とともに帰国した。 途中革命軍の戦艦の追撃をうけた が振り切り、1643年2月、無事ヨークシャーに戻った。そして5か月後、自ら軍を編成して、戦場にいたチャールスと合流した。しかし、日に日に戦況は不 利になっていった。

 そんな中、アンリエットは再び妊娠した。それでも夫に付き添って転戦していたが、ついに産み月も近くなり、戦線を離脱せざるをえなくなった。
 1644年、4月17日、チャールスは、アビントンなる街に妻を置いて立ち去った。
「ごめんなさい、あなた。」
「私のことを案ずるより、無事子供を産んでおくれ。」
 去り行く夫の姿は、勇猛だった父/アンリ4世の面影を彷佛とさせ、アンリエットは思わず涙ぐんだ。
 2か月後、エクセター伯の屋敷で、第6王女アンリエット・アンが産まれた。子供が産まれたら、再び夫の元に行くつもりだったが、状況が変った。
 あの処刑されたエセックスの息子/第3代エセックス伯ロバート・デヴァルー率いる革命軍が、王妃を人質に取るためこちらに進撃している、との情報が入った。
 急きょアンリエットは亡命を決意した。生後2か月の王女を人に預け、自身は二人の王子とともに、フランスへ逃れた。

 実家に帰った彼女は、夫を支援し続けたが、ついに1648年8月、国王軍はブレストンの戦いで決定的に敗北。捕えられたチャールスはスコットランド議会側から革命側に引き渡された。そして翌年1月30日、処刑された。

 1660年、長男のチャールス2世が即位して王制が復古した時、アンリエットもまた英国にもどったが、フランス人でカトリック信者の彼女に居場所はなかった。
 アンリエットもまた、チャールスを失って、英国に未練はなかった。
 彼女は再びフランスにもどり、1669年の9月、パリ郊外で亡くなった。
 60歳の誕生日を迎える直前だった。
         
 参考資料/
British Civil war,Commonwealth and Protectorate 1638~60
by David Plant
The Stuarts Historyonthenet 2000-2004
King Charles I by Pauline Gregg
世界の歴史8 絶対君主と人民 中央公論社         

 

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