アン王妃/ギーレーツ作1612年/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

 アンは1574年10月、デンマーク王フリードリッヒ2世と、ドイツ候女メクレンブルグのソフィアとの間に産まれた。
 両親の名前といい、容姿といい、純然たる北欧の女であった。
 兄クリスティアン4世は11歳で即位しており、弟フレデリクはホルスト公だった。
 その頃、長引く宗教戦争の中、スコットランドではプロテスタント勢力が勢力を伸ばしており、若き国王ジェームス6世は結婚相手をプロテスタント国から選ばなければならなかった。となると、相手はドイツか北欧に限られていた。

 花嫁が見つかったのがよほど嬉しかったのか、ジェームス6世は自らデンマークに赴いて、15歳のアン王女をスコットランドへ連れ帰ってしまう。しかし途中海が荒れて航海が遅れたことを、ジェームスは魔女の仕業だと思いこみ、魔女狩りを行って罪のない女性達を殺戮した。
 そして5年後、二人の間には待望の跡継ぎヘンリー・フレデリック王子が誕生した。そしてそれから毎年のように子供が生まれ、4男4女の親になるのである。

 1603年、ジェームスは、エリザベス女王の死によって空となった英国王位を継承、英国王ジェームス1世となる。
 その年の7月25日の戴冠式で、アンも英国王妃になったのはいいが、なんと英国国教会式のミサを拒否してしまった。
 いつの間にか、アンはカトリック勢力に鞍替えしていたのである。

 その頃から、夫ジェームスとの間に隙間風が吹きはじめる。
 もともとジェームスはホモであった。美男の尻を追いかけ回す夫に嫌気が差した上に、1613年には長男のヘンリー・フレデリックが18歳の若さで亡くなってしまった。同じ年、愛する長女エリザベスも、遠いドイツのハノーバーに嫁いでしまった。 すっかり寂しくなったアンは、仕返しのように派手に豪遊し始める。
 セントジェームズ宮殿やハンプトン・コートの思いきった改築や、温泉地バースへの大名旅行、仮面舞踏会・・特にアンは、演劇界のパトロンとして金払いがよかったという。
 そんなアンについたあだ名が
「脳たりん(empty head)」である。

 しかしバカと呼ばれようと何だろうと、アンは歴代王妃の中では最も平穏な人生を送ったといってもいいだろう。
 8人の子供のうち、生き残ったのは2人きりだったが、それでも当時の幼児死亡率を考えれば平均的であった。
 1619年3月、夫と別居中だったアンは急死する。しかし、それすら長生きして、わが子チャールス1世の非業の死を見なかっただけましだったかもしれない。

 参考資料/
British Civil war,Commonwealth and Protectorate 1638~60
by David Plant
The Stuarts Historyonthenet 2000-2004
King Charles I by Pauline Gregg
世界の歴史8 絶対君主と人民 中央公論社