ロバート・セシル
Robert Cecil
(1563~1612)
ロバート・セシル/クリッツ作1602年
ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
1563年6月1日、エリザベスの重臣ウィリアム・セシルとその二度目の妻ミルドレッドとの間に男子が生まれた。母はわずかに脊椎が湾曲している病があったが、この子もまた母に似て、生まれつき障害を持ち、矮小な身であった。
しかし、その才能には周囲も一目を置き、先妻との間に長男がいたにもかかわらず、父の後継者として政界に進出、エリザベスの信任を得て14年間にわたって国務長官を勤め、さらに大蔵卿の地位さえ掴んでいた。
女王エリザベスの晩年はウィリアムとロバート親子の連携プレイで政権を独占しているかのような状態であり、それが議会内の不和を生むほどであった。
やがて女王エリザベスも倒れる日がやってきた。陰るかに見えたロバートの権力は、しかしスコットランド王ジェームス6世を支持することで、見事に復活した。
ロバートの支持をえて難なく英国王となったジェームスは、その見返りとしてクラボーン子爵領とソールズベリー伯爵の地位を与えた。
しかし、ジェームスが受け継いだ国は決して楽園ではなかった。その治世の当初から、エリザベス時代の負債が重くのしかかっていたのである。
1610年、ロバートは大蔵卿として、議会で次のような報告をしなければならなかった。
「エリザベス女王は国庫に70万ポンドをもって対アイルランド戦争を開始された
が、女王が亡くなるまでかかった戦費はしめて170万ポンドにもなっておりました。
しかしジェームス王の御世となり、60万ポンド補給され、さらに30万ポンドの負債も解消されつつあります」
大蔵卿として活躍する一方、彼は父から受け継いだヨーロッパのスパイ網によって、カトリック教徒による爆破テロ(「火薬陰謀事件」)を暴いて、未然に防いだ。
しかし国家の財源を回復するための辣腕は、議会内にさらなる反発をまねいた。
封建制による領主の年貢を停止するかわりに、下院が年一回国王に対して上納金を納めるというシステムであった。
1611年ロバートは悪性の腫瘍で苦しむようになった。癌という説も有れば、不倫相手から移された性病との説もある。
翌1612年5月、ロバートはマールバラの聖マーガレット修道院で亡くなった。
死後3万ポンドの負債が残されていたという。
参考資料
Dictionary of Elizabethan England, Cambridge University Press, 1977
The Tudor place by Jorge H. Castelli