(18世紀初頭のロンドン橋)
〜橋の上の輪舞曲(ロンド)〜 ロンドン橋の歴史/その1
           

 古代ブリトンの頃、川に橋をかけるのは、川の神に対する冒涜と考えられていた。
 日本でも柳田国男の「遠野物語」を読むと、橋の着工に女蝶・男蝶といって、男女の人柱を建てたことで知られている。
 内容はこうである。
 昔一人の意地悪い姑がいた。気に入らない婿を始末してやろうと考えた。
 そこで新しい橋の人柱にするよう人々を説得した。
 その話を聞いた婿はうなづき、「人柱になるのは構わないが、男蝶(男の生け贄)にはかならず女蝶(女の生け贄) が寄り添うものだ」といって、愛する妻を呼んだ。
 妻と夫は手を取り合い、水の中に消えていった、という。
 古代ブリトンにおいても、人柱の風俗があった。
 古い橋の改築工事の時、橋の根本から、人骨が発見されることが少なくないという。

 英国には日本の「通りゃんせ」そっくりの遊びがある。
 二人の子供が向き合って手を繋ぎ、みんなで歌を歌いながら、腕の下をくぐる。
 歌が終わって、腕につかまった子が「橋の番人」になる。
 番人とは、すなわち生け贄のことである。

 人柱として出土する人骨は、子供のものが多かった。

 ウェールズ地方には、こんな伝説がある。ある日川に橋をかけようとしたところ、悪魔がやってきて、もし生け贄を出さなければ、橋を壊してしまうと脅した。

 そこで、生け贄は、「橋を最初に渡った者」ということで決まった。
 橋の開通日、責任者が最初に橋に足をかけようとした瞬間、責任者の女房がおん鶏を放した。おん鶏はコケコッコーと鳴きながら、真っ先に橋を渡っていった。
 おかげで悪魔は、おん鶏で我慢しなければならなかったという。
 おそらく人身御供の風習は、途中から家畜を捧げることに変わったのである。

 中世に入ると、橋をかけるのは、宗教上重要なこととなった。
 橋は巡礼に向かう信者にとって、必要欠くべからざるものだったからだ。
 ローマ法王のことを「ポンティフpontiff」と呼ぶが、その語源はラテン語で「橋の管理者」という意味だった。それは現世からあの世へ橋渡しする神の代理人という意味とともに、ヨーロッパ中に橋をかけて回る役があったせいでもある。
 12世紀には、布教活動の一環として、橋を建設することをモットーとした『橋教団』なる修道会も存在した。

 ベネディクト教会の開祖・聖ベネディクトは、あの有名なアヴィニオンの橋を建設したことで知られている。
 ベネディクトは12歳の時、天使から『アヴィニオンに橋をかけよ』とお告げをうけた。
 そこで1177年、地元へ行って、そのことを告げた。ちっとも信じようとしない街の人々の前で、少年は巨石を一人で川に投げ込むことで奇跡を起こして見せた。人々は驚いてベネディクトに従い、11年後橋は完成したという。

 橋はいつもこの世とあの世の境目と思われていた。
 イスラム教では、天地を結ぶ橋をアル・シラッドといい、芥川龍之介の
『蜘蛛の糸』のように、欲深い者は途中で落ちてしまう、という。
 ケルト神話でも、天上にかけられた虹の橋は、悪人が渡ろうとすると、炎の橋に変わってしまうらしい。

 ところで16世紀まで、テームズの大橋といえばロンドン橋だけだった。
 14世紀には、現在の位置よりもう少し上流にあり、カンタヴェリ巡礼路の正面にあった。

 橋ができる前のこと、ここにはオーヴェリなる船頭がいた。
 オーヴェリは強欲な男で、沢山の船を持ち、繁盛していたにもかかわらず、もっと金が欲しいと思った。

 そして一計を思いついた。自分が死んだふりをすれば、香典が集まるに違いない…
 そこでオーヴェリは棺桶に入って死んだふりをした。ところが、である。いざ葬式になってみると、みんな強欲なオーヴェリが死んだことを喜んで飲めや歌えの大騒ぎをし始めた。
 怒ったオーヴェリが棺桶から立ち上がると、死人が立ち上がった?!ゾンビにちがいない、とよってたかって叩き伏せ、本当に死なせてしまったという。

 オーヴェリの娘のメアリーは父の死を悲しみ、出家して橋のたもとに尼寺を作った。

 7世紀の記録によると、この尼寺はテームズの渡し船の船頭が作ったものだった。
 やがて尼寺は娘の名を取って聖メアリー修道院となり、そこの修道士たちが木製のロンドン橋を造ったことが、ロンドン橋の起源だという。しかし別の本では、すでにローマ時代から、この地には橋があったらしい。

 紀元44年、ローマ皇帝クラウディウスは、反抗するブリトン軍を追って、「テームズにかかる木製の橋を渡り」追撃した。しかし対岸の低地まで来た時、戦車は湿地帯に入って身動きできなくなった。その時待ち伏せしていたブリトン軍が一斉に襲いかかり、ローマ軍は多数の戦死者を出した。
 橋は古代、生活のためではなく、あくまで軍事的な目的のために作られた。

 それから800年後、テームズ川周辺は激しい戦火に見舞われる。
 ロンドンは厚さ4メートルもの城壁に守られていたが、テームズ沿いは無防備だった。
 ヴァイキングはロンドン手前まで占拠し、ここに軍事施設として橋を強化した。
 橋の両端に塔を作って兵を置き、橋の幅は「二台の戦車がすれ違えるほど」広かった。
 ブリトン軍(ウエセックス王国軍)は、この橋を攻めあぐねていた。
 1008年、エセルレッド王は、橋を総攻撃することに決めた。
 地上からはブリトン軍が、水上からは同盟国ノルゥエイ軍が受け持った。

 ノルウェイ軍は船上に足場を組み、弓で一斉攻撃する一方、橋桁にロープを縛り付けた。そして引き潮に乗って、上に乗ったヴァイキングもろとも橋を破壊してしまった。

 ロンドン橋を手中におさめたブリトン側は、ただちに橋を再建する。
 1016年、ヴァイキング王クヌートは、艦隊を率いてきたが、ロンドン橋からの攻撃で、それ以上の進撃を妨げられた。そこでクヌートは南側に水路を掘り、艦隊を上流へと導いた。
 ただし、この話は別の本によると、当時の土木技術を考えると、不可能ではないか、との説もある。
 しかしどちらにせよ、クヌートがテームズ沿いに進撃して、ブリトン全土を支配したことは、歴史的事実である。
 (後半にづづく)


                           

(参考資料)
遠野物語 柳田国男
ランドマーク世界史/ロンドン塔 講談社
テムズ河 その歴史と文化 相原幸一 研究社
イギリス故事物語 加藤憲市 大修館書店
  
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