アン・オブ・クレーフェ(クレーブス)

(1515~1557)

アン・オブ・クレーフェ/ハンス・ホルバイン/ルーブル美術館所蔵

クレーフェのアンの家系図

 1537年3番目の妻ジェーンが王子を残して他界した後、一月経つか経たないかのうちに、ヘンリー8世は、他国との王室と縁組みすべく、ヨーロッパ中に根回しした。
 3年の歳月をかけて浮かんできた花嫁候補は3人。1人はフランス大名門ギーズ家のマリー、デンマークのクリスティーン王女、オランダとドイツ国境線上にあるプロテスタント国クレーフェ公国の公女アンだった。
 確かに、英国国教会は「プロテスタント」だった。それは法王がヘンリー8世の離婚を認めてくれなかったためであって、決してプロテスタントが好きだったためではない。

 1521年にはルターを非難する声明文を発表して法王庁から絶賛されていたし、絶対王政を擁護するカルヴァン派らピューリタンも嫌いだし、ましてや「自由、平等」を主張する独立派など、見つけしだい火あぶりにするほどの弾圧ぶりであった。
 ヘンリー8世が良心から「宗教改革」をした、などと「絶対に」考えてはならない。

 ともあれ英国の孤立を打開すべく、ヘンリーはカトリック王国との縁組みを望んだ。
 特にギーズ家のマリーはロングヴィル公との間に3人の子のある未亡人であり、これからも子供を産んでくれそうな気配だった。しかし、マリーはきっぱりと拒絶し、代わりにヘンリーの甥、スコットランド王ジェームス5世に嫁いだ。 政略結婚であるにも関わらず、女性がキチンと自分の意思を表明したことは、注目に値する。

 一方デンマークのクリスティーン王女もまた、拒絶の意思を示した。
 表向きにはクリスティーンの母がキャサリン王妃の姪だったので、キリスト教的タブーに触れるから、という理由であったが、明らかに個人的にヘンリーを嫌ったからである。
 すでにこの頃、ヘンリーはヨーロッパ中の嘲笑と悪評にまみれていた。
 最初の王妃キャサリンを虐待死させ、2度目の王妃には裏切られた腹いせに殺害し、3番目の王妃は、「腹を割いて子供を取り出したため」死んだ、という噂が広まっていた。
 結局大法官クロムウェルの斡旋により、クレーフェ公国のアンが乗り気であった。
なぜならクレーフェはその地理的条件により、歴史的にハプスブルク家と対立しており、英国という味方が必要だったからである。

 1539年8月、クロムウェルの派遣した画家ホルバインの手による肖像画が、ヘンリーの手元に届けられた。
 今までの3人の妻よりも美貌であった。そこでヘンリーは2ヶ月後の10月6日、正式にクレーフェ公国と縁組みの契約を交わした。
 同年12月、アンはカレー港で順風を待って2週間そこに足止めを食っていた。
 12月27日、ようやくドーバー海峡を渡って、翌年の元日、ロチェスター館に入った。
 その頃ヘンリーもまた、新しい妻の顔が見たくて、密かにロチェスターを訪れていた。
 しかし2人の出会いは、良いものとは言い難かった。

「And on New Years Day in the afternoon the king's grace with five of his privy chamber, being disguised with mottled cloaks with hoods so that they should not be recognized, came secretly to Rochester, and so went up into the chamber where the said Lady Anne was looking out of a window to see the bull-baiting which was going on in the courtyard, and suddenly he embraced and kissed her, and showed here a token which the king had sent her for New Year's gift, and she being abashed and not knowing who it was thanked him,
 and so he spoke with her. But she regarded him little, but always looked out the window....
(The accounts at right were written by the Spanish ambassador Eustace Chapuys/1540)」
(元日の午後、王はロチェスター館にこっそり来て、その5つ目の部屋で、隠し持った時計とともにフードで変装し、上の階の窓から庭にいるレディ・アンを、草をはむ牛を眺めるが如く観察したが、ばれる様子がなかったので、急いでアンのところに言って抱きしめ、キスして、新年のお年玉プレゼントの時計を与えた。アンは当惑してろくろくお礼も言えず、さらにヘンリーが話しかけても、ほとんど注意を払ってもらえず、アンは窓を見るばかりだった・・・
(スペイン大使エスタス・チャピウスの記録/1540年/著者訳)

 アンは時に24歳、デュセンドルフで生活していて、ヘンリーの趣味である音楽にも読書にもほとんど興味がなく、英語も下手だった。
 12夜前日、つまり1月6日、グリニッジ宮殿の「女王のクローゼット」の間で結婚式をあげたが、新婚初夜はうまくいかなかったらしい。
ヘンリーはこう答えた。
「I liked her before not well, but now I like her much worse」
(前からあの女は好きでなかったが、今はなおさら嫌いだ!/著者訳)

 ヘンリーはさっそく離婚準備に取りかかった。アンは1530年代にフランスのロレーヌ公フランソワと婚約していたが、うやむやのまま流れてしまったので、正式にはまだ婚約破棄されていないと解釈して、結婚は成立しなかった、と決定した。
 同年7月9日、議会は結婚の無効を認め、離婚されたアンには新たに「王妹」の称号を与えた。この離婚の怨みは、アンを斡旋した大法官クロムウェルに向けられ、その年の7月28日クロムウェルはロンドン塔で処刑された。
 一方アンの方も、本国の兄に向けた手紙の中で、こんな感想を漏らしていた。

「The King's highness whom I cannot have as a husband is nevertheless a most kind, loving and friendly father and brother.」
(私が夫にはできなかった高貴な王様は、でもとても親切で、フレンドリーな愛すべき父か兄弟といったところですわ。/著者訳)

アンはあっさり離婚を承諾した見返りに、処刑されたクロムウェルの領地の一部と、アン
ブーリンの実家だったヒーヴァー城を含む2つの邸宅、及び4000ポンドもの年金を受け取った。

その後アンは、1557年チェルシーで亡くなるまで、王家の人々と交流しつつ、悠々自適
に暮らした。ヘンリー8世の6人の妻のうち、最も幸福かつ自由な人生を送った女性であったといえよう。

 参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
英国王妃物語 森 護 三省堂選書

オックスフォード大学/セント・ジョーンズ・カレッジ蔵
アン・オブ・クレーフェの肖像/作者不詳