アンは自分が美人でないのをよく知っていた。

彼女の薬指の脇には、生まれつき指のように見える突起物があった。
今ではさして珍しくもない奇形の一種・多指病である。
それ自体も気になるのだが、もっと気にかかったのは幼い頃に無神経な乳母が口走った言葉だった。

「恐ろしい・・・これは悪魔の印です。気をつけねば、国を滅ぼすような人間になりますよ。」

その言葉を聞いて、アンは傷つくより面白いと思った。
自分に本当に悪魔から国を滅ぼすような力を与えられていたらよかったのに・・・・だが、幸か不幸か、アンはその容姿が災いして、誰にも構ってもらえない目立たない少女だった。
黒に近い濃い褐色の髪、黒い瞳。これで肌が白ければ、髪も瞳も引き立つだろうに、顔色は悪かった。
背も低くやせっぽちで、思春期になっても胸はさして膨らまなかった。
姉のメアリーは、明るい髪の色に明るい瞳だった。アンは家族の誰にも似ていなかった。

こんな娘を、外交官だった父のトマス・ブーリンは不憫に思った。
ヘンリー7世の王女メアリーがフランスに嫁ぐ時、その侍女の中に加えてもらえるよう取りはからった。
もっとも、まだ7歳の娘に、何ができるというわけではなかったが。フランスに渡ったメアリーとアンの姉妹は、主であるメアリー王女が帰国した後も、フランス宮廷に残った。
宮廷はちょうど先王ルイ12世が亡くなり、その娘のクロードが遠縁を入り婿に迎え、フランソワ一世として即位させたばかりだった。

若く華やいだ王と王妃の元で、姉妹はのびのびと育った。
お年頃になったメアリー・ブーリンには、さっそく恋人ができたが、アンにはお声はかからなかった。
そのかわり、大好きなリュートやダンスを習い、上達していった。
どうせ容姿で周囲に劣るなら、何か一芸に秀でて目立ってやるつもりだった。

1522年、ようやくブーリン姉妹は帰国した。
相変わらず不美人であったが、多弁で会話がうまく、何より自信たっぷりの強気な態度が、英国男たちを圧倒した。
アンはもう自分の欠点をうまく隠す技を身につけていた。
薬指の多指は、ドレスの袖を手の甲までかぶせることで、巧みに見えなくした。
ディズニーのアニメ白雪姫の中で、魔女の継母が着ていたあのドレスの形である。
尖った袖の先端が、中指のあたりに達していた。このドレスはけっこう流行ったので、アンの指は見事に隠されたのだった。また、アンは体の何カ所かに大きなホクロがあった。
もっとも目立ったのは喉にあるホクロだった。これを隠すために、首に宝石つきのリボンを巻いた。
特にお気に入りなのが、自分の頭文字「B」をデザインした宝石をあしらったチョーカーだった。

やがてノーサンバーランド伯爵の息子、ヘンリー・パーシーと恋仲になって結婚を考えるようになった。
このまま何事もなければ、ヘンリー・パーシーを尻に敷いて、まずは平穏な一生を過ごしたかも知れないが、運命は、アンの乳母が予感したとおり動き始めていた。

ヘンリー8世は、このよくしゃべる女の軽快な話し声に惹かれた。
よく話し、よく笑い、合間にリュートを巧みに演奏して見せた。
ヘンリーはでかい図体を揺すりながら、何気なくアンの横に並んだ。
「おまえはリュートがうまいな。フランス仕込みか。」
アンは肩をすくめ、
「どこにいてもリュートは好きだったと思います。」
「ところで、おまえの姉のメアリー・・ちっとも似ておらんな。」
「姉ではなく、私が似ていないんでしょう。私は家族の誰にも似て いませんもの。」
何がおかしいのかヘンリーは大笑いして
「そうか!家族の誰にも似ていないのか!朕(わたし)と一緒だな!我々はウマが合いそうじゃないか。」

ヘンリーはさっそくアンを口説いた。実はこの男、以前にアンの姉メアリー・ブーリンを口説いて愛人にしていた。
ヘンリー8世には厄介な癖があって、口説き落とすまではヒーロー気取りでお姫様を助けるようにお熱を上げるが、相手がなびいてベッドに入ったとたん、「ただの女」に見えてしまうのだ。
そういった性質を姉から聞かされていたアンは、アホらしくて相手にしたくはなかった。
何よりアンには愛するパーシーがいた。もうすぐ2人は結婚するはずだった。
ところがふられた腹いせか、ヘンリーはトーマス・ブーリンの直接の上司にあたるウールジー枢機卿に命じて、ノーサンバーランド伯に圧力をかけ、婚約をぶち壊してしまった。

その後パーシーは、以前縁談話のあったメアリー・タルボットという女性と無理矢理結婚させられた。
父親から、「アンと別れなければ廃嫡にする」と脅されたためだった。
パーシーは新妻とうまくいかず、胃の病気に苦しんだあげく、1536年の秋、短い一生を終えた。
アンはこのことを非常に恨み、ウールジーへの復讐を考えたほどだった。
夫がいるにもかかわらず、否、夫の出世のために、ヘンリーの誘惑に応じた姉のメアリーは、すでに飽きられていた。
今のヘンリーの眼中には、アンしかいなかった。

アンは実家のヒーヴァー城へ引きこもる。ヘンリーの執拗な求愛に嫌気がさしたためである。
ヘンリーは女官に片っ端から声をかけては一夜の慰み者にし、すぐに飽きるという噂だった。
「今度はアンの番らしいわね」と同僚たち嗤われるのも耐えられなかった。
父親のトマス・ブーリンも嬉しい反面、困惑を隠せない。
長女のメアリーだけでなく、次女のアンまで慰み者にされるのはたまらない。何とかして、このチャンスを生かして我が家の繁栄に繋げられないものか?同じ事を、アンも考えていた。
(お安く見られるのは姉だけで十分。私はまっぴらよ。)

アンの不在に耐えられなくなったのか、いきなりヘンリーはヒーヴァー城に現れた。
そして宝石やら金貨やらプレゼントを積み上げて繰り返し口説いた。
「そなたが好きなのだ。もう胸が苦しくてたまらない・・・」
しかしどんなに口説かれても、アンはエリザベス・ウッドヴィルの言葉を引用して冷静に微笑み返すだけだった。
「陛下、私は王妃になるには身分が低すぎますが、慰み者になるにはプライドが高すぎるのです。」
そういって優雅に一礼すると、また部屋に閉じこもってしまう。

拒否されればされるほど、ヘンリーは悶え苦しみ、アンの言うことなら何でもかなえてやりたい気がしてくる。
一国の国王ともあろうものが、閉じたドアの向こうから哀願する有様を見て、アンは部屋の中でほくそ笑む。

姉メアリーへの仕打ちを思うと、いい気味だとさえ思う。
「これ以上陛下に逆らっては反逆罪になるぞ。」
という父の説得もあって、とりあえず宮中に帰ってくれ、という頼みには応じることにした。

宮中に帰るなり、アンはヘンリーにキッパリと言い放った。
「どうしても私をご自分のものにしたいと仰せなら、結婚して下さいませ。
 いくら陛下とはいえ、夫でもない殿方に肌を許すなどできません。
 結婚のお約束をして下さるまで、一緒に夜は過ごしませんが、それでも
 よろしいでしょうか。」
ヘンリーほどの男なら、無理にでも自分のものにできるかも知れない。
しかし、そんなことをしてアンに嫌われるなどと、できるはずもない。
「結婚する!結婚するから今すぐ私のものになってくれ!」
ヘンリーは叫んだ。

アンはムッとして言い返した。
「どうなさるおつもりで?。キャサリン王妃がいるというのに。」
「王妃は・・王妃は・・・」
ヘンリーは腹の底から声を絞り出した。
「離婚する。そうだ、法王にお願いして結婚を解消してもらう。
 だから・・」
アンは初めて微笑んだ。
「じゃ、晴れて陛下がキャサリン王妃から自由の身になったあかつきには、一緒に夜を過ごしましょう。
 それまでは遠慮いたします。」

焦らせば焦らすほど、ヘンリーは戸惑い、犬のようにアンの顔色を窺った。
宮中を下がれば恥ずかしくなるほど甘ったるいラブレターを寄越す。

「朕の愛を受け入れてほしい。
 そうなれば朕はもっと忠実なしもべになろう。
 もしそれが許されるなら、あなたの本当の恋人になれるなら、
 ライバルとなる他の女は全部捨てて、朕の心から捨て去り、
 あなただけに仕えよう
    ーあなたの恋人になることを切望する者より ヘンリー」

最初は嫌がっていたアンも、だんだん面白くなってきた。ラブレターを読んで、一人声を上げて笑った。
英国の最高権力者が、自分の一挙一動で泣いたり笑ったりするのだ。
結婚してくれ、と言ったのは、ヘンリーをやんわり遠ざけるためだったが、これは案外夢ではないのかもしれない。

「アン・・実は離婚には少々時間がかかりそうだ。それまで待ってくれるか?」
アンは眉を逆立てた。
「どうして?あなたはこの国で最も偉い方ではないですか。そんな方が、
 自分の好きだと仰る女一人妃にできないなんて、情けないと思いますわ。」
ヘンリーはしどろもどろになり、
「いや・・法王が認めてくれないのだ。知っての通り、離婚には法王の
 特別な許可がいるもので・・。」

そこでヘンリーは国中の宗教学者や法律学者を動員し、何とか離婚できないものか策を巡らした。
キャサリンはもとは兄アーサーの妻だった。確か聖書のレビ記には「兄弟の妻とは結婚してはならない」と書いてあったではないか?。
しかしキャサリンは形式的な妻に過ぎなかった。法王もそれを正式に認めた。

その上よく聖書を読めば、別の箇所には「もし兄弟が亡くなったら、その妻を娶り、財産を継げ」と書いてある。ようするに要するに兄弟の未亡人との再婚をタ ブーとしたのは、もともと兄と弟が一人の女を争って対立しないよう諫めたレビ記の内容を拡大解釈したものと考えられるのだ。
だとするなら、何らキャサリンとの結婚に問題はない・・というのが大方の意見だった。

しかも、もし兄弟の未亡人との結婚がいけないものなら、アンの姉と子供まで作るほど親密だったヘンリーがアンと結婚することも禁止ということになる。当然ヘンリーは怒った。それ以上にアンは怒った。
オックスフォード大学の博士達に圧力をかけて強引に離婚は正しいという結論を出させた。
法王にも脅しをかけ、ヨーロッパ中の学者達に金をばらまいた。
しかし、離婚に賛同する声はほとんどなかった。


離婚交渉はなかなか進まなかったが、アンはすでに王妃のようにふるまった。
キャサリンの侍女を見ては
「スペイン人など海に沈めばいい!」と罵る。
無礼な言動に「あなたも王妃様の侍女なのですよ」と窘められると、
「あんな女に仕えるぐらいなら、キャサリンが死刑になるのを見た方がましだわ」
と答えた。

王の寵臣ウールジーへの復讐も忘れていなかった。
(私とパーシーの仲を裂いた男・・。)
アンはウールジーが法王との交渉に失敗したのにつけ込んで、ヘンリーに悪口を吹き込み、ついにこれを失脚させてしまった。スペインと対抗するためにフランスと和平を結ぶ会場にも、王妃の代わりにアン
が参列した。その準備に、何とキャサリンの所有する王妃の宝石をよこせと要求した。
キャサリンは拒否したが、ヘンリーに脅されてやむなく宝石を引き渡した。
しかし、和平の式場では、フランス王妃も王妹も大貴族からも総スカンを喰った。
アンの悪評は、ヨーロッパ中に知れ渡っていたのだ。

そうこうしているうちに6年の歳月が流れた。
「もう我慢できません!私は別の男性との結婚を諦めて、青春時代を
 陛下に捧げたのに、ちっとも王妃になれないじゃありませんか。」
アンはそういって泣いた。もう別れたい、とまで言い出した。
「待ってくれ。まだ諦めるのは早い。朕(わたし)には考えがある。」
ヘンリーはある決意をうち明けた。

それはローマ法王との決別だった。
ヘンリーはついに法王の許可を貰うことを諦めた。
考えてみれば、この国は英国人のもののはずなのに、結婚から離婚から宗教関係全て遠いローマまかせで、しかも莫大な年貢まで納めている。
「もういい!この国はローマの植民地ではないのだぞ。」
ヘンリーは国中の僧侶に国王を選ぶかローマ法王を選ぶかを迫り、法王を選んだ者は残虐に処刑した。
震え上がった高位聖職者たちは、ついにヘンリーの離婚が正当なものだと宣言した。以降、英国内の問題は全て英国内で処理する事ができるようになった。ヘンリーが誰と結婚しようと自由になった。

「もうそろそろいいだろう?」
ヘンリーはアンを抱き寄せて、唇を重ねようとする。
「あ・・・・いや、待って。」
アンは笑いながら、するりとヘンリーの腕から逃れた。
「王妃になるには、私の身分が低いままではイヤ。とっておきの貴婦人の地位を与えてちょうだい。」
ヘンリーはさっそくペンブルック女侯爵の地位を与え、王妹で今はサフォーク公爵夫人になっているメアリーよりも上座の席を与えた。
2人はその夜、初めて結ばれた・・・・・。

翌年1533年1月、アンが妊娠した。
ヘンリーは英国内において、自分が政治でも教会でも最高の地位にあるという宣言である「首長令」を発表した。
次はアンとの結婚式である。
「やっと王妃になれるのね。きっとお腹の子供は男の子よ。」
「ついに跡継ぎができるのか。名前はヘンリーがいいかな?それとも祖父の名にちなんでエドワードが
 いいかな。」

1533年5月、アンは王妃として戴冠すべく、ロンドン塔のクイーンズハウスへ船で移動した。翌日豪華な紅のガウンに長い黒い髪を垂らし、キャサリンから 取り上げた宝石で身を飾ってウエストミンスター寺院へ向かった。何もかもキャサリンと同じ道順だった。
ただ違っていたのは、道の両側に押しかけた群衆が、歓声を上げる代わりに不気味なほど沈黙しているか、罵声を上げているかのどちらかだった。

ロンドン市民は、この強引な戴冠式に誰も賛成していなかった。皆の胸に、王妃はキャサリン一人だという思いが刻まれていたのだ。そうした反感を振り切るように、アンの頭には王妃の冠が載せられた。
その瞬間、聖歌隊が神を讃える「デ・デウム」の曲を高らかに歌い上げた。
(ついに、ついにやったわ!私は英国の王妃なのよ!)

念願の結婚式を終えて、相変わらずアンは有頂天だったが、ヘンリーの胸には奇妙な空しさが残った。
手に入れてみると、アンもまた他の女と大差のない、ごく普通の女に見えた。
ヘンリーの興味は、たちまち愛人候補を求めて宮中の美人へ向けられた。
それに気づいて、アンはヒステリーを起こした。以前なら黙っていたかも知れないが、今回は違っていた。ヘンリーは苦々しく言い返したのだ。
「朕(わたし)はおまえを王妃にしたが、いつだってその座から引きずり下ろすことができるのだからな。」

アンは初めて気がついた。今まで女王のように振る舞えたのは、ヘンリーが夢中だったからだ。
キャサリンのように、生まれつきの王女でもなんでもない。ヘンリーがいなければ、ただの平民上がりの貴族の娘に過ぎないのだ。いつ他の女が愛人から王妃候補になってもおかしくない。
そう思うと、ますますアンはヒステリックになっていった。

いよいよアンの出産が近づいた。誇らしげに大きなお腹を見せて歩くアンは、絶対に男の子だと確信していた。1533年9月7日、陣痛が始まった。産室のあるグリニッジ宮殿は騒然となった。

シェークスピアは戯曲「ヘンリー8世」の中で、この時の情景を
こう書いている。
ヘンリー「産まれたのは男か?女か?」
  産婆「陛下がお好きな方でございます。」
ヘンリー「男の子がいい」
  産婆「将来男の子を沢山産む、女の子でございます。」

産まれたのは女の子だった。後のエリザベス1世の誕生である。ヘンリーは露骨にガッカリして見せた。
アンは再びヒステリックになり、子供が女だったのは、キャサリンとメアリーの呪いのせいだ、とわめいた。
2人を処刑するようヘンリーに迫った。が、キャサリンを殺せばヨーロッパ中を敵に回すことになりかねないし、我が子メアリーを死刑になどできるはずもない。
「それならエリザベスをメアリーの代わりに、すぐ皇太女にして下さい。」
アンはそうヘンリーに迫った。さっそく王位継承法が改正され、将来の王位はエリザベスのものに・・元の
皇太女メアリーは王女の位を奪われた。

17歳のメアリーは母親から引き離され、宮中から追放された。
メアリーはどんな仕打ちを受けても、決してアンの存在を認めようとはしなかった。母のキャサリン同様、いつ処刑されてもよい、と決意を固めていた。2人を 殺すことができないと知ると、アンは復讐のためにメアリーに侍女としてエリザベスに仕えるよう命じた。かつての皇太女がエリザベスの屋敷の片隅で身を縮め て暮らさねばならないと知って、国民はますますアンを毛嫌いした。

考えてみれば、アンは一度も王妃らしく振る舞ったことがなかった。
キャサリンとは異なり、政治はサッパリ分からなかったし、金貨も宝石も独り占めにした。アンの王妃としての勤めは、王子を産む・・それだけだった。
いつしかヘンリーにとって、アンは恋人ではなく、子供を産む道具に過ぎなくなっていた。かつて魅力的に思えた激しい気性も、今は単なるヒステリーにしか見えなかった。キャサリンを罵倒した口調は、そのままヘンリーや周囲の者に向けられた。
宮廷の貴族達は、影でアンを「カラスのように黒い女」と嘲った。

エリザベスが生まれて2年ほどたった頃から、アンの周囲には黒い噂が流れ始めた。虐待されていたメアリー王女が、何者かに毒殺されかかったという。
疑いは、メアリーの死を最も望んでいた人物・・・・アンに向けられた。
また、アンの居室には男の出入りが多かった。主にアンの兄弟達だが、中には怪しげな音楽士や、若い貴族も混じっていた。
「姦通ではないか?」
という恐ろしい言葉も囁かれた。今やすっかりアンへの興味が薄れてしまったヘンリーの傍らには、すでに新しい王妃候補がいた。美人ではなかったが、控えめで温かな人柄で男を魅了する女・ジェーン・シーモア。
ジェーンの温かさが、いっそうアンの性格のきつさを際立たせていた。

ある日アンがヘンリーの部屋に入っていくと、ヘンリーはジェーンと抱き合っていた。カッとなったアンは、ナイフを抜いて斬りかかった。裏切りを口汚く罵るアンに、ヘンリーは静かに言った。
「おまえのために、キャサリンも同じ苦しみを味わったはずなのに、一言も責めようとしなかった。
 おまえも言葉に気を付けろ。」

1536年1月、アンは男の子を死産した。
ベッドの傍らで罵倒するヘンリーに、アンは恐怖の悲鳴を上げたという。
(この女も、まともに子供が産めそうにない。)
ヘンリーはそう見切りをつけた。そして今度はジェーンとの結婚準備を始めた。
男の子も産めないし、魅力もなくなったアンにヘンリーを引き留める力はなかった。

失脚したウールジーに代わって寵臣となったクロムエルが離婚理由を探し始めた。キャサリンの時にはあれほど苦労した「別れる理由」が、今回はいくらでも沸 いて出た。1つはアンの姉がヘンリーの妻同然だったこと。これもキャサリンの場合と同じように不法である可能性があった。
他にも姦通・・メアリー王女と国王の暗殺計画。こちらの方はただの離婚では済まされない。反逆罪である。
反逆者となれば、面倒くさい離婚手続きなどいらない。ただちに逮捕すればいいだけだ。チューダー王朝の掟では、逆らう可能性がある者は抹殺するだけだった。

 

1536年1月7日、キャサリン前王妃が亡くなった時、アンは2人目の子を妊娠中だったが、お祝いと称してパーティーを開いた。それから4ヶ月後の5月2日には逮捕されてしまった。罪状は反逆罪。
寵臣クロムエルの入念な下準備の結果である。
アンの逮捕に先立って数名の共犯者が逮捕されていた。その中には陰謀に加担したといわれるアン自身の兄弟もいた。音楽家のマーク・スミートンは拷問の末に「アンとディープキスをして」「三回にわたって関係を持った」と自白した。
5月15日に行われた裁判では、アンは終始知らぬ存ぜぬで通し、潔白だと主張。不利な証言が出ると、気絶するという有様だった。判決は死刑。当初は魔女として火あぶりだったが、後に斬首に減刑。
「おほほほ・・・火あぶりが斬首に変更?それで情けをかけた
 つもり?殺すことには変わりないのに!。」
アンとの結婚もキャサリンの場合同様無効になり、エリザベスは庶子となった。

謎の多い裁判である。だい たいいつ捨てても誰も文句も言わないような女のために、なぜわざわざ裁判まで開いて抹殺しなければならなかったのか。不義密通はともかく、国王暗殺計画は でっち上げだった可能性が高い。むしろキャサリンやメアリー暗殺計画にヘンリー自身も共犯者であって、その事実を口外されないために仕組まれたものだった のかもしれない。
ともあれ、このカップルの末路は見苦しい。まるで仲間割れの末の口封じのようだ。

 

裁判終了後、アンは戴冠式の前日に泊まったロンドン塔のクイーンズハウスに入った。
今回は反逆者としてである。
ロンドン塔は戴冠式の準備と牢獄という、相反する2つの役割を兼ねている。戴冠式には正門から入るが、牢獄に入る時には「反逆者の門(トレーターズ・ゲート)」から入る決まりだった。
アンは反逆者の門をくぐる時には怯えたが、監禁されるのがクイーンズハウスだと知って微かな希望を感じていた。
(これは悪夢・・・・いつかは醒める悪夢に決まっている。だって今私がいるのは栄光の場所ですもの。
 きっとヘンリーは私を脅すために、こんなバカなことをしたんだわ。)

アンはあれほど自分に夢中だったヘンリーが自分を殺害するなどと最後まで信じられなかったようだ。
1536年5月19日、裁判終了から一週間も経たないうちに処刑は行われた。楽に死ねるように、という配慮から、剣による斬首のうまい執行人がフランスより呼ばれていた。
その到着が遅れたために、処刑時刻も遅くなると告げられて、アンは取り乱した。
「もうこの時間には、とっくに楽になっているはずだったのに」と。
アンは赦免の使者が来るのではないか、と振り返りながら処刑台に上った。
しかし赦免されることはなかった。

最後にアンは自分の手を見た。悪魔のしるしと呼ばれた6本目の指ともお別れだ。
もう何も気に病まなくて済む・・・・・・
考えてみれば、乳母の予言は当たっていた。国を傾け、重臣達を死に追いやった末に、自分自身をも滅ぼすとは、大したものだと思う。
アンは高らかに笑った。

  (完)